第二章 禁断・はぎ香 <3>
お母さまは、昔、結婚してすぐの頃はフルサトの共同統治で、小さな子どもたちに絵を教えていた人らしかったけれど、わたしの知っているお母さまは、今の仕事に就く前は、ただ家にいるだけの人で、何か放心することが多くて、家の用事さえもままならないような、何でもひどくゆっくりとしか出来ない、だらしのない感じの人だった。
その頃のわたしは、もう五歳になっていたとはいえ、お母さまに何かを手伝ってもらったり、特別に構ってもらったりということが、まるっきり無くなってしまった。保育園には、送り迎えが必要だったけれど、光彦がそれをしてくれていた。
いくら、担任の先生からお母さまに連絡があっても、お母さまは、だめだった。家にまで訪ねてくださる先生にも、まずは、会うこと自体を嫌がり、そしてまた、会うには会っても、カミツクヨウニ言ったかと思うと泣きじゃくる、という取り留めの無さで、ウン、ウンと、お母さまの繰言を熱心そうに聴くふりをする、若くはないけれど潔癖そうな先生の横顔は、しかし、自分とは一生、縁もユカリもない人間の話を聞くかのように、又は、絵に描いたようなバカな親を見るかのように退屈しきっていて、最後には軽侮を隠そうともせず帰って行く。
当然の事のように、わたしの保育園生活は悲しいことが多かった。子どもたちのほとんどが、先生の態度を敏感に捉えて、先生の見ていないところでは、一層の横着さと狡猾さを露わにして、わたしを取り巻いた。そんな対立が何処から生まれてくるのか、丸顔で愛くるしい顔立ちでもある先生は、本当に気付かない愚鈍さなのだ。
わたしは、周囲の子どもたちの、卑劣に投げかける言葉に驚き、言葉を失い、その代わりのようにガツンと左手が出てしまう。叱られるのは、勿論、わたし。先生は、理由を聞いてくださることは一度もなくて、言葉が少なかったわたしは、ただただ、咎められ、嫌われていた。わたしに子どもが出来たら、きちんと話せる子どもにしたいって、今は思う。嘘つきの子どもにも負けないくらいに。
「お母さまが、ボンヤリして考えられなくなってしまうのは、病気のせいなんだよ」
「嘘よ。熱はないって言ってたわ」
「熱のあまり出ない病気ほど、気を付けて大事にしないといけないんだ。お母さまが、きちんとお薬飲むの知ってるだろう?」
「・・・この前、捨ててた・・・」
「・・・・・」
「アイスクリーム!食べる!」
わたしは、真冬でも、光彦にアイスを買ってとねだった。わたしは、光彦の前では、おしゃべりで、わがままで、甘えん坊の女の子に変身していた。わたしは、泣き虫ではなかったけれど、迎えに来てくれた光彦のやさしい笑顔を見て、何度も泣きそうになる。でも、心配かけたくない気持ちから、泣かなかった。それに、光彦の笑顔を見ると、わたしは、イヤな一日を全部忘れて、別の世界へ帰って行けるの。
光彦は、遠回りした公園の赤い屋根のお店の前で、少し考える。そして、
「金曜日だから!買ってあげよう!」
「アイスクリーム!食べる!」
「月曜日だから!食べよう!」
光彦の貯めていたお小遣いが、わたしのアイスクリーム代に消えているなんて、気が付かなくて、光彦は、お母さまからひどく問い詰められて、『ごめんなさい』と謝っていた。
「はぎ香が、ご飯、食べなくなっちゃうでしょ?だから、だめ。これからは、土曜日に買ってあげますから。我慢して」
わたしは、光彦のために、アイスクリームを我慢して、公園のブランコも我慢して、夕ご飯を一生懸命に食べる。光彦は、わたしに対してだけでなく、お母さまにもやさしいから。
わたしも、時々は、お母さまに甘えたくなって近づくけれど、お母さまの笑顔は初めだけで、だんだん、不機嫌をこらえていくような感じになって、しまいには、光彦に、わたしを見てほしいと頼むの。わたしは、どうして嫌われたのだろうと、分からず、悲しくなる。
誰にも涙を見られたくないわたしは、お風呂で、一人身体を洗いながら、そこで泣くことを覚えた。埃だらけだからと、先に済ませる光彦だけど、わたしが上がるのを、いつも居間でピアノの練習をしながら、待っていてくれる。わたしが乾いたタオルを持って行くと、光彦は、それでもう一度、わたしの髪のしずくを拭き取って、『あとで、本を読んであげるよ』と言ってくれる。
手早くて、慣れた手つきでドライヤーもかけてくれる光彦の、サラサラと髪に触れる指先が気持ちいい。『女の子らしくて、素敵な髪だね・・・』と、いつも言ってくれた。
わたしは、お母さまがそんな風になる前からも、そして、このD村に引っ越して初等校に入学してからも、夜は、光彦の傍で眠ると言い通してキカナイ子どもだった。いつもいつも、光彦の傍にいたかった。
眠る前に、光彦は胡座を組んだ足の上に、わたしの身体を包むように乗せて、わたしの膝の上に広げたお話の本を覗き込んで、やさしいきれいな声で読んでくれる。ほとんど、毎晩、そうして後ろから抱くようにしてくれる光彦が大好きで、片時も離れていたくなかった。人が背後にいることは、すごく嫌いなわたしだったけれど、光彦は特別だった。今も、目を閉じると、頭の良くなるオマジナイと言って、光彦が焚いていたレモングラスの香りが甦って、わたしの身体を包んでくれる。
光彦が予選校に進むのと同時に、わたしとは別な部屋を、お母さまが用意して、光彦は階下に行ってしまった。そして、いつの間にか、髪を乾かせてもらうことも、お話の本を読んでもらうこともなくなった。わたしは、だから、余計に光彦の傍に行きたくて行きたくて。兎に角、傍にいたい。夜も、まだ、傍で眠りたいのだ。けれど、光彦は、その部屋には一度も呼んでくれなくて、わたしは、寂しいのを我慢していた。
その頃、お母さまも漸く、回復の兆しが見えて、わたしも九歳になって、とてもしっかりしてきたからと言って、西のM市まで出て、夜のプラスチック工場で働き始めた。午後七時に家を出て、午前九時に帰って来る。過酷に思える、そんな地味な仕事をする人たちもいて、世の中は成り立っていると、光彦に教えてもらったから、分かっているつもりだけれど、何か、わたしには、お母さまが、わざと、長く家を空けていられる仕事を選んでいる気がするの。
「夜の仕事だから、お金にもなるし、プラスチックは静かな手作業だから、今のお母さまのためにも合っている、ちょうど良い仕事なんだよ」
と、光彦は言っていた。でも、わたしの知っているお母さまは、いつも、ヴァンパイアのように眠っていたし、光彦も、昼間はもう、わたしなんて忘れてしまったみたいに、プラザで知り合った青樹や雅彦と一緒にいることが多かった。
わたしも、友だちと一緒に、プラザにいたり、公園にいたりする光彦の後を追っている日もあったけれど、光彦たちには近づかなかった。光彦の傍には行きたかったけれど、まるで、光彦の周りを恋びとを奪い合うみたいに代わる代わる取り巻く、青樹や雅彦のような、年の離れた男の子たちに近づくのはイヤだった。
そんな日々が一年余り続いて、わたしは、すっかり取り残された気持ちになっていたけれど、やがて、光彦が一層サッカーに夢中になった頃、雅彦はM市にある体育系予選校へ転校し、青樹も、専攻を彫刻から建築へと切り替えて熱心になったとかで、もう、だんだんと、世界が違ってしまったらしかった。
お母さまが出かけるようになって、初めは淋しかったわたしも、夜は光彦と二人きりだと気がついて、なんとなく、嬉しい。部屋の扉をノックすれば、もしかして、入れてくれるかもしれない・・・。けれど、光彦は、予選校に入ってからは、午後八時から十時までは必ず勉強するようにしていたので、わたしもその間は、友だちに短い手紙を手書きしていたり、一日の一番最後の時間にあるクリアテスト、その間違い直し、それが宿題だったので、それをしていたり、ないときには、裁縫道具を広げて遊んでいたりする。
お母さまは、光彦には本を、わたしには布地をよく買わせてくれる。わたしは、他のどんな色よりも、萩の花の淡く鮮やかな赤紫の色が気に入っていて、ちょうど、そんな色の木綿を見つけて、たくさん買った。わたしは、それで、肩には細い紐だけの、胸にはたくさんのギャザーを寄せて縫い取りをした部屋着を作り始めていた。
保育園の頃から、針を持つことには慣れていたし、始末よく縫うことは、お母さまより得意かもしれなかった。わたしは、いつのまにか、それを着て、光彦に見てもらいたいと、そんな風にばかり考えて熱中した。
三日目の夜、とうとう、それを仕上げたわたしは、着替えて、胸の下のギャザーを確かめて、二階の廊下の大きな鏡に映してみた。背が高くなって女らしくなったように見えて、自分でもドキッとする。肩を長い髪で少し隠した。そして、急いで、でも、音は立てないように、気を付けて階段を降り、すぐ左手にある、光彦の部屋の分厚い扉をノックした。
十一時を少し過ぎかけていたけれど、光彦はまだ起きていて、『なあに?』と、すぐに扉を開けてくれた。十歳のわたしは、まだ小さかったけれど、十四歳の光彦は、普段、着痩せして見えるだけで、本当は肩も広くて、手も足も逞しくて、それに、この古い家の鴨居は、光彦には低すぎると思うくらい、もう背も高かった。
いつか、一度だけ、この部屋に入りたくて、光彦の後を追った時、どうしても、だめと、押し返されて入れてもらえなかった。
「なあに?どうかした?」
勉強の時にだけかけている眼鏡をはずして、戸口に寄りかかった光彦は、久し振りでわたしを見るみたいに、じっと見おろしている。わたしは、光彦の、クリーム色のシルクのシャツと、裾までゆったりとしている同じシルクの長いパンツを見ていた。
「綺麗だね。この色」
わたしの萩の色に目を留めて言ってくれた光彦を、わたしはじっと見上げた。そんな、わたしを、光彦もじっと見たけれど、すぐに、やさしい笑顔になって、
「おいで・・」
と言って肩を抱いてくれて、あっという間に、わたしは、来たくて来たくてたまらなかった部屋の真ん中にいた。でも、少し寒い。この頃は、冷房が効き過ぎる。
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