第二章 禁断・はぎ香〈21〉

わたしは、忘れていたいと思うそのことを持ち出されて動揺してしまった。どうして、どうして、もう忘れたい、いいえ、もう忘れたこと、もうとっくに、どうでもいいこと、思い出したくないことを、と恨んで青樹を見つめた。けれど、わたしのその目を受け止めて、青樹は穏やかな表情で言った。
「こんな言い方をする僕を卑怯と思うだろうね。でも、強姦というのは、日頃から女性をナイガシロに思っていたり、自分が女性から生まれたことも忘れて女性を軽蔑していたりして、そして、折りあらば辱めて生きていられないようにしてやりたいと、いつも女性に対して、そんな非情な冷酷な心でいる男の行為だと、そう感じるんだ。でも、そうすると、僕なんて幸か不幸か、どんな人でも女性だというだけで、もう、可愛いと思ってしまうタチなんだもの…。君は特に可愛いと思った。君にはもっと触れたいと思った。でも、だからといって君に対して、あんな風に思い遣りなくしてしまったことは、やはり、いけなかったと恥じているけれど。でもね、僕は一度だって君をどうにかしてやりたいなんて卑しい気持ちで見たりしなかった。君を辱めてやろうなんて、そんな酷い気持ち、絶対に持っていなかったよ。自分に負けて、したいようにしてしまったのはいけないけれど、僕の中では、とても自然なことだった。君としたいと思った…。自分の方から、そんな風に感じた女性は君が初めてだった…」
聞きながら、わたしは、あの時、バスルームで青樹が、わたしに向かって言っていた言葉が少しずつ思い出された。青樹はわたしの腕に触れて声を落とした。
「嬉しい。あれから一度も僕を見なかった君とこうして話せるなんて」

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第二章 禁断・はぎ香〈20〉

「僕、二~三週間あとにD村を出ようと思うのだけど、君が…君をひっさらってったりしたら、光彦にブン殴られるだろうからね、君が予選校を終了して男と暮らすなんて光彦は、きっと、許さないから。やめておくけど。はぎ香、僕がいなくなっても寂しくない?」
無言のわたしに青樹の溜め息が漏れた。
「僕は光彦が羨ましいんだ。君の兄だというのに、まるで恋びとのように君に慕われて。一層、君と僕が兄妹だったら良かったのに…なんて考えて、君のお父さんのこと、もう一度聴いてみたくなった。でも、今、写真を見せてもらって、すごく納得した…君のお父さんと僕は似てないって」
と、青樹は言うの。
「君のお父さんは、僕なんかと違って、とても誠実そうだし、それに、何か、自分自身と闘い続けているような、そんな美しさが身についている…今の僕よりずっと大人びていて、僕とは違っているもの。ね?」
と、青樹は意外にも明るい目になって、わたしを見る。
「僕は乱暴で不誠実で、すぐ自分に負けてしまう弱い男」
と、思い返すように言って目を伏せた。あの表情だと見つめるわたしに、さらに青樹は言った。
「だけどね、はぎ香、君のためにも聴いて欲しいんだけど、あれは…あれはね、強姦なんかじゃない」

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第二章 禁断・はぎ香<19>

「いいえ。お昼からは資料室で勉強…って言っても、ほとんど趣味だけど」
「趣味?」
「うん。あの黄金時代の衣裳を調べたり、あの時代の音楽を聴いたり、そんなことをしているの」
「そう。レポートは、あと何枚書くの?」
「あと50枚近く。まだ半分もいかなくて、書きたいことがありすぎて、支離滅裂になってるの」
止まらずに話すわたしに、青樹はニッコリとして聞いていた。
「君の目は僕と同じ色だね。光が入ると緑にみえる…だからなのかな。昔、君と僕と、兄妹じゃないかって間違って言われたことがあったよ…僕は、君のお父さんと、やっぱり似ている?」
わたしは頷いた。そうなんだ。だからかもしれない。いつのまにか打ち解けてしまう。何かしら、ゆるしてしまう。憎みきれない弱い気持ちになってしまう。
わたしは、前から、健康カードと一緒に、光彦と並んでいる古い写真を恋びとの写真みたいに入れて持っていたけれど、最近もう一枚、父と母の結婚記念の写真も、縮小して持ち歩いていた。
二人の古風な正装の美しさも少し自慢だったわたしは、青樹に見せてあげようと、すぐに嘘じゃないって分かるからと、取り出した。
受け取って青樹は、左手の人差し指と長い親指とで固い写真の角を支えて、見入っていた。
父は長い黒髪を後ろで束ねていたので、一見、短い髪の人のようだけど、その分、額の形や顔の輪郭がはっきりと判って、確かに、父と青樹は、一族と呼びたいほど、よく似たタイプの顔立ちだった。
「沙羅…とても綺麗だね。お父さん…は、今の僕と同じくらい若いみたいだけど、何歳で結婚したの?」
「二人とも十六歳だったの」
『十六歳!?』と、青樹は驚いていた。『もっと大人に見える!』
「冬至の日が好きだったから、その日に結婚したの。ね?似ているでしょ?青樹…」
いつのまにか、わたしは、嬉しいみたいに言っている自分に気が付いて、口をつぐんだ。
青樹は、ゆっくりと、わたしの手に写真を戻そうとして、ふと、裏書きに目を留めた。「冬至の日。沙羅(さら)十六歳。湖秀(??)…十六歳。…」
「『みづほ』って読むの」
説明するわたしの目を、青樹は深い眼差しで、じっと見つめた。

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第二章 禁断・はぎ香<18>

洗い晒して真白い上着の清潔な匂いと、髪からの甘い香りがする中で、まるで愛していると言われているみたいに、あの時のように、やさしい手。
『はぎ香…』と言ったまま動かなくて、わたしはじっと、そんな青樹を支えてあげているような気持ちになって立ち尽くした。自分で自分が解らなかった。気持ちはまるで兄妹のように、形はまるで恋人同志のように時が流れ、傍を通って行く人の静かな足音に気が付いて、青樹はわたしを離し、それでも、まだ、やさしい子どものような眼差しで、わたしを包んで、
「はぎ香、今、僕を抱いた」
と、嬉しそうに言う。
「この前、とても悲しいことがあった。君が僕のすぐ傍を通って、それなのに、君は気が付かず行ってしまった。知らんぷり…だったら、まだ嬉しいけれど、君は全然、僕に気付かなかった。君はどうして、そんなに冷たいのだろうって悲しかった」
「悲しいとか、淋しいとか多く言う人、女々しくて嫌いよ。」
「そんな風に生意気に言う君も好きだよ」
「…」
「本当は僕よりもまだ寂しがり屋だったりして」
と、見透かすように言って、じっと観ている。
「はぎ香、元気だった?あれは大丈夫だったろう?」
青樹の言葉に、わたしは応えなかったり応えたり…『光彦は?』と聞いてみた。
「光彦?アァ…僕はね、昨日からE県に出かけていて今になったんだ」
青樹は、わたしを見つめ続けた。わたしも負けずに見た。
「ピクニック?」
あぁ…と、わたしは少し打ち解けて応えた。
「資料館で走るの。そしてね、水球するの」
「君、うまいものね。右も左も」
「…」
「お昼には帰って来るの?」

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第二章 禁断・はぎ香<17>

今夜が最後。光彦の前で、わたしらしさを取り戻せる最後のチャンス…と、そんな風に思いつめた。以前のようにもっと素直になりたい。『もう少し話さないか』と言ってくれた時の光彦の目。そう、あの時、わたしが首を振ると光彦は遠い目をした。寂しいみたいに、わたしを見てくれた。そんな風な目をさっきもした。そんなやさしい目で光彦がまだわたしを見ていてくれる今のうちに、以前のわたしを取り戻したい。今夜、光彦と話せば、わたしは、きっと以前のわたしに戻れる…そう思うと、光彦の帰りがもう待ち遠しくて、話題を探して指を折って数えて記憶する。
そう、こんな風にして、話したいと思うことをちゃんと忘れないようにして、そうすれば、話せないなんて気に病むことはないよね。きっと話せると、わたしはまた指を折った。けれど、とうとう、光彦は帰らなくて、すっかり夜が明けていた。
休みの間ずっと、朝早くから資料館で友人と待ち合わせて一緒に資料館の広い庭を走って過ごし、開館するとシャワーを浴びてプールで遊ぶ、ということを繰り返していた。そうして、すっかり、さっぱりしたところで、勉強は冷房のきいた涼しい資料室でみっちり閉館までという毎日だった。
いいお天気。少し早いけれど最後の一日。眠ってしまってはいけないと、わたしは顔を洗い直し支度をして出かけた。
光彦に会わないかしらと想いながら、南のバスターミナルに着いていた。そして、そこで、わたしは会うはずもないと思った青樹と出会ってしまった。
話したくない。話すこともない。でも。逃げ出すようなマネはもっとしたくない。それに、知らない顔で行き過ぎることができる程、時はそんなにも経っていなくて、近づいてくる青樹に、わたしは立ち止まった。
こんな早い時間にと、青樹もわたしを見つけて意外だったのか、心の中で、はぎ香…と呼ぶみたいに、少し唇を開いて言葉を探しているようだった。
寝不足なのかしら。青白くやつれて見える青樹の顔は、ひどく大人の顔に見えて、でも、あんなにイヤだと思った人なのに綺麗と思って、その顔をこわごわ見てしまうわたしを、青樹は空いている方の左の手でそっと抱いた。

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第二章 禁断・はぎ香<16>

日記帳をうっかり居間に置いて忘れてしまったとしても絶対に見ないのに。いつか置き忘れた、わたしの日記帳を母は見た。見られて困ることは何もないけれど、それでも読まれたくなかった。読まれたくないのだから読まないで欲しい。ひとの日記を読むなんて最低。いちばんキライなタイプ!と、自分の不注意を棚にあげて?いつまでも母が赦せない。いつまでも赦せないなんて、そんな自分自身も本当はキライなタイプ!と書いて、また細かくする。

窓際に寄って、出掛けて行く光彦の後ろ姿をずっと見つめた。見つめていると光彦は、わたしの部屋の窓を少しだけ振り返って、すぐに角を曲がって行ってしまった。

離れ離れになる日はもう遠くない。もう、わたしだけの光彦ではなくなる。今だって今だって、わたしのものなんかじゃない。兄が妹のものなんて聞かない。でも好き。なぜなぜ?どうかしている?でも好き。ずっとずっと特別。ずっとずっと誰よりも好きだった。誰よりもやさしくて、いつもいつも誰よりも綺麗な目をして見つめ返してくれた。光彦の傍にいると、その時だけ不思議に心の底からかわいい気持ちになれるの。

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第二章 禁断・はぎ香<15>

光彦の明るい声が、かわいいと言ってくれたことに気を良くして見上げたけれど、何か口をきこうとしたけれど、目が合うと声が出なくて、そして、明るい声だった光彦が、そんなわたしを見て、淋しいみたいな目になったと思うと胸が痛んだ。涙ぐみそうになって、わたしは二階へ駆け上がってしまった。何てイヤな子なんだろう。母も光彦もやさしいのに、わたしひとりで二人にひどく意地悪をしている。そう思うと自分でも自分がキライ。妹だから声かけてくれるんだ。恋びとだったら、さよならと言われてしまうよ。でも、わたしだって自分がこんなに暗い人間だとは思わなかったの。どうすればいいのか分からなくて。前みたいにもっと色々いっぱい話したいの。でも、どうしても出来なくて。

…わたし、本当は前みたいに一緒に眠りたい、光彦…

と、紙に書き散らしては、それを机の内蔵シュレッダーにかけて捨てる。

わたしは書いたものを残さない。残したくないの。書くだけ書いて捨てる。残せば母に読まれてしまう。死ぬほどイヤ。わたしが、もし親だったら、たとえ我が子の日記でも絶対読まないのに。

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第二章 禁断・はぎ香<14>

カメラを庭へ持ち出して『はぎ香ちゃん、早くー』と、きれいな声を張り上げて、わたしをちゃん付けで呼ぶのもキモチワルイ。

「イヤよ。この不細工な人が光彦の妹さん?って言われそうだもの。入らない」
「バカね。誰がそんなことを言うの?」
「いつか誰か」
「変な子」
屈託なく華やかに笑う母の横で、光彦は何も言わず、わたしを観ていた。

母は楽しそうに、眩しげに、庭に立つ光彦を五枚六枚と続けて撮った。時には素早く、時には粘ってシャッターを切る母の写真は、なかなか感じの良い撮り方のものが多かったけれど、後では感謝するけれど、撮り始めると長引くの。

「ありがとう。今日はもういいよ。ね、またこの次ー」
と、光彦も母の手からカメラを取り上げて居間に戻ると、わたしの傍に来た。

わたしは知らんぷりの顔で、でも少し甘えていたくて、近付いて来る光彦の細っそりとした爪先を観ていた。
「はぎ香。不細工とかって卑下して言うなんて君らしくないじゃないか。そんなかわいい顔で言うと、かえって嫌味だろ?そういうのって君のキライなタイプだろ?」

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第二章 禁断・はぎ香<13>

較べると、わたしなんてまだ子ども。秘密を持った子ども。

忘れたいことは思い出さない主義だもの。青樹との非日常的な出来事なんてもう全然気にしていなかったし、青樹ももう何も言って来なかったけれど、光彦が恋しくて、あの日の無防備だったわたしを後悔しているの。

まだまだ子どもでいたかったのに。ここに写っているわたしは、どれもこれもまだ子どもなのにと、光彦の傍で笑って写している写真が何枚も続くのを眺めながら、だんだん、ぼんやりと、いつもより寂しい。

光彦は、どんどん男らしい。どんどん素敵。そして、今日なんて、麻と絹で織り上げたエメラルドグリーンの上着を着た光彦は、もう、わたしの兄ではないみたいに大人の男の人に見えた。

「あら!光彦、とっても似合ってる!素敵!素敵な光沢!」
と、はしゃいで言う母を、わたしは横目で見ていた。イヤラシイ。さっさと誰か見つけて再婚しちゃえばいいのよ。光彦は息子でしょ。恋びとじゃないのよ。いつまでもベタベタしてキライ。

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第二章 禁断・はぎ香<12>

七月二十日。雅彦の結婚式に出かけて帰りの遅い光彦を待ちくたびれて、おかあさまは二階へ上がってしまったけれど、わたしは、もう一日休みも残っていたので、まだ起きていた。もう、おかあさまは眠ったみたい、絶対もう起きて来ないーと確かめて、時間を置いてから、わたしは光彦の部屋に入った。
わたしは時々、光彦の部屋に入り光彦のアルバムを見ているのが好きだった。そこにある写真そのものよりも何枚か空白になっている部分を見ているのが好きだった。光彦は友達の写真の外に、わたしと写している写真もQ市へ一緒に持って行ってくれている。今日も、その空白を確かめて、そして、今夜は素直になれそうだからと、光彦の帰りを待った。
雅彦の結婚は、わたしにとって別な意味でスゴくショックだった。"サヤカ"と一緒に大通りを駆け抜けて、真新しい緑のA市を手を繋ぎあって眺めた、あの不思議な優しさに包まれた朝から、まだ三か月だった。あの時は、なんだか、わたしを恋びとにしたいみたいな、そんな態度だったのに、何て早い心変わり!と呆れた気持ちもあったけれど、それ以上に、雅彦は、もう結婚してしまうほど大人だったと思うと、雅彦と二つしか違わない光彦はー、光彦も、もしかして、もうすぐー?と考えてしまって、それがショックだった。

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第二章 禁断・はぎ香<11>

青樹もわたしを見つめて、苦しそうに首を振った。そして、とうとう、わたしを目覚めさせて、それでも強く抱き続ける激しさの中で、青樹の体がさっと離れていった。

”ア・・・”

なぜ、なぜ、身体は、こんなふうになっているの?わたしは、青樹から顔をそむけて目を閉じたけれど、身体が震えるのか、心が震えるのか、不意をついて涙があふれてくる。どうしても、どうしても、全身で震えてしまって、涙も、ますます止まらない。

なぜ、ここへ来てしまったの?なぜ、身体はこんなふうになっているの?

”わたしを・・抱いて・・・”

頬を寄せて、わたしの涙に口づける青樹に言ってしまいたい。

顔をそむけていながら、震える波が、いくつも、いくつも押し寄せて、どんどん、気持ちが青樹に流れて行く。いつになったら泣き止むの?と、自分でも分からず気持ちが揺れて、わたしの手に触れている青樹の手を握らないように、と思っていたはずが、気が付くと、強く握り返していた。

『はぎ香・・』と、やさしく呼んで抱き寄せてくれる青樹の胸で、わたしはまだ震えて、泣き止もうとすればするほど、甘えるように涙があふれてしまう。

自分が、どこで何をしているのかさえ忘れて、どのくらい時間が経ったのだろう・・・。わたしは、ずっと長い間、青樹の胸の温かさを感じて、じっと目を閉じて抱かれていた。

そして、漸く、われに返った時、『君が、このまま、泊まって行けるといいのに』と、青樹は抱きしめたまま言った。

わたしも、こんなふうに心も身体も触れ合った人が、お兄さまだったのなら、離れたくないと、いつまでも思うだろうと感じた。

「父が帰ったら、はぎ香、君を紹介したい・・」

でも。わたしは、青樹への用事は済んだのだから、もう、いつまでもここにいるのはよそうと、自分を取り戻していた。

「もうすぐ、光彦が帰る」

わたしは、青樹の胸に言った。青樹は、それでも、まだ引き留めたいみたいに動かないと思ったけれど、少しして離してくれた。

そして、わたしよりも素早く服装を整えて、窓際に寄りかかるように手をついて、こちらを見たけれど、すぐに目を伏せた。いつも、空の高みに臨むかのように目を上げている青樹の印象が強くて、伏し目がちにすると、表情は澄み切っているにも関わらず、何か、悲しんでいるように見える。

わたしは、近づいて青樹を見つめた。もし、わたしが、この前の青樹の恐ろしかったことを誰かに訴えても、あれは、和姦?だと、みんなに思われてしまうわ。

力で迫る相手を、殴りもせず、蹴りもせず、押し返す力も無くして、ただ恐くて、そして、諦めたなんて。それに、もっとバカだと言われそうなのは、イマドキ、あんなに無防備でいたこと。そんなこと、友だちでさえ信じてくれないかもしれない。光彦だって、いつか、『ここは男の部屋だから来るな!』と、部屋に入りたいと言って聞き分けないわたしを叱った。

はぎ香は、前からあんなふうで、だから、いけないんだと、光彦でさえ、わたしを責めて言うかもしれない。それに、光彦はいつも、青樹はやさしい人だよ、わたしに言っていた・・。

そして、わたしも、もう二度と見たくないと思ったあなたに、こうして逢った。快感を求めて逢ったのではないなんて、誰が信じるかしら。

それに、もう感じてしまった。あの日のあなたを忘れて、今日のあなたを、わたしも、やさしいと、何度も感じて、そして、そして、

「今日の僕もイヤ?」

青樹、今日のわたしが恐くて、もう聞かないで・・。青樹、あなただけは、絶対にイヤ。どんなことがあっても、あなただけは、好きにならないわ。

それでも、わたしの腕に触れている青樹の手の温かさに、わたしの心が、また揺らいで、『・・・来ないの』と、打ち明けて言った。青樹は微笑を消して、不思議そうに、わたしをじっと見た。

「僕と結婚すればいい」

青樹の、冷たいほどに澄み切った目に柔らかい色が浮かんで、信じて傍に居たくなるような、子どもっぽい、やさしい目になった。けれど、わたしは、『いや?』と聞いて、わたしの目を見る青樹に、『イヤ』と、素早く応えた。

わたしが、結婚したいと天に願うのは、お兄さま。でも。お兄さまなのだから、許されるはずもない。苦笑気味に、陽の当たる天井の梁を仰ぎ見た青樹の顔が、明るくて、綺麗・・。

「君が、”イヤ”だったら、連絡しないけれど、でも、はぎ香、きっと、連絡してくれるよね?僕は、いつまでも待つよ。二ヶ月でも、三ヶ月でも。もしかしたら、五年でも、十年でも。来るものは拒まず、去るものは追わずって言うけれど、君が去っても、僕は待っているかもしれない。遠く離れても、君を待ってしまうかもしれない。案外、気が長くて」

居間へと階段を降りながら、青樹がそんなふうに話していた。わたしは、最後の処を、『気が多くて・・』の間違いだわと、冷めて聞いていた。わたしは、連絡なんてするはずもない。あなたとは、もう、これっきり、逢うはずもない。

坂の上で、バスの時間を気にする振りをして背を向けたわたしに、青樹が言った。

「はぎ香。冗談だから気にしないで。いつまでも待つなんて、僕はそんなにシツコイ人間じゃないから、安心して」

何もかもを許しながら、それでも頑なな、わたしを思い遣るような言い方だった。

「それどころか、君を忘れられたらとさえ思う。君に逢いたいと想うたびに、なぜか、光彦を裏切っているような気持ちになって・・・」

わたしは、”ああ・・・”と、その時、光彦の姿を想い、そして、もう決して振り返らずに坂道を駆け降りた。

その日から、五日後だった。わたしの身体は、思った通り、何もなかったみたいに正常な生理へと戻った。

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第二章 禁断・はぎ香<10>

階下に降りた青樹を待つ間、初めて部屋を見回してみた。少し不似合いに、たくさんのピンクの薔薇が飾られて、甘い香りが満ちている。不似合いと思ったのは、青樹には白い椿のような印象があったから。

屋根裏と言っても、それは、アトリエ?と居間?と寝室?とても広い広い部屋。強い陽射しをはね返している真白い壁が一層白く、その壁からは少しづつ、あちこち白い棚が突き出ていて、その一つ一つには、鮮やかで複雑な色合いの青い陶器が、いくつも美しく並べられて。本やCDの類いが一切ないと思ったら、その棚の一つに、”ブック”があったので、ああ・・と分かった。

わたしは、光彦の部屋の本当の本や、光彦の奏でる本当の音色が好きだけど。それでも。”ブック”を持っているなんて、スゴイと思った。ベートーヴェンは好きだった。溢れる情熱が音楽を超えてしまっているけれど。「田園」は、そのバランスが素敵。

青樹の”ブック”は、黒い塗りで有名な本体を、暖かな発色の朱の耐熱布で包み、耐熱布には、特別に?トルコグリーンとトルコブルーの唐草模様が描かれている。それから、さらに高い棚に目を遣ると、横笛(ヨウジョウ)が見えて、ひどく古風な趣味もあるのだなあと珍しく思って見ていたら、上がってくる青樹の静かな足音が聞こえた。

戻った青樹の衣服を取る気配を感じながら、わたしは目を閉じて反対の方を向いていた。青樹が、わたしの横に入っても、わたしは見ないでいた。青樹は腕を手枕にしたいみたいに、わたしの頭の上の方に置いて、もう一方の手を、わたしが傾けている頬の下に置いて、わたしの顔を自分の方に向けようとしているのが分かったけれど、わたしは、もう知らんぷりにして、ただ目的の行為を待っていた。

青樹は無理にはせず、そのまま指先で頬や目蓋に触れていたけれど、わたしの肩にキスをしたかと思うと、わたしの首筋に顔を埋めてしまって動かなくなった。首筋に少し唇を感じたけれど、しばらくして、青樹は震えているような気がした。わたしの頬に触れている指先も微かに震えている。”なぜ?なぜ?青樹・・・”と、わたしの胸の声が聞こえたみたいに青樹が言った。

「はぎ香、お願いだから、もう一度、僕を見て・・・許してくれていると思ったのに、そんな風だと・・・寂しくて・・」

淋しい・・?そうよね。乱暴で卑怯なあなたには、お似合いのいやらしい言葉だわと、わたしは頑なにしていた。けれど、青樹は、ただやさしく抱きしめて、いつまでも、わたしを待っているみたいに動かない。

わたしは、触れている指先のやさしさや、その澄んで言う声の哀しさ、そして、わたしの身体を抱いている青樹の胸の温かさに、漸く、青樹の方にそっと顔を向けた。この前のことさえなければ、わたしは、もしかして、あなたを好きになって、毎日、あなたの傍にいたいと思うかもしれない。

「この『田園』は・・・?」

どこか、ゆったりとして、溢れる情感をかみしめるような再現だと思った。乱れた黒髪のまま、顔を上げた青樹の目がやさしく澄んで、わたしを見つめた。

「一九五二、W.F.という音楽家の指揮だよ・・・」

「W.F.一九五二・・・」

この前のあなたを知らず、今日のあなただけを知っているのだったらと、また思うと、何故か悲しくなって目を閉じた。”アンダンテ・・モルト・モッソ・・・”青樹の乾いた唇が、わたしの額や頬に、そして唇に触れて、やさしい・・・。

やさしいキスを繰り返しながら、微かに微かに唇に触れていた青樹のひんやりとした舌先が、いつの間にか、ゆっくりと、わたしの舌先にも絡んで触れ、やがて、その舌先から、澄み切って透明に感じる青樹の体液が、さらさらと、わたしに注がれた。

それは、人にはあまり知られない谷あいの冷たい清水のように、思わず、”おいしい”と思ってしまったほどの清潔さで、そして、また、わたしの舌先に溢れる体液も、青樹の唇は吸い取って行く・・・。

わたしたちは、愛しているのでも愛されているのでもなかったけれど、わたしの肩や背中に触れてくる青樹の温かい手のひらや指先にも、まるで愛し合っているかのようなやさしさを感じて、わたしは何度も幸せな気持ちになりそうだった。けれど、これは、ただ戯れに過ぎないのだからと意識して度々心を冷やす。

青樹を知ることによって、お兄さまへの気持ちを確かめたわたしの心は、もう他の誰にも動かない。お兄さまより年の多い人は、みんなイヤ。素敵過ぎる雅彦も。そして、やさしい・・・青樹も。

けれど、それでも、わたしは、本当には、まだ何も感じていないのだった。わたしは、何も恐くはないのだということを、きちんと、わたしの身体に言い聞かせたいためだけに、青樹の体がわたしに重なってくれるのを待った。

ためらいも、恥じらいも、何の動揺もなくて、わたしはその瞬間を、とても冷めて受け容れた。痛みというほど痛みは、もう、ほとんどなかったけれど、やはり、固く、強く、そして、細く、鋭く、尖ったものが突き刺ささるような、あの感触だった。

青樹は、深く、静かに深く、わたしの身体を抱いて、そして、しばらく沈んだようになって動きを止めていたけれど、やがて、その静かな動きが、やさしく抱いたまま繰り返され始めた。

わたしは、何度も息をこらえながら、別なところで恐くなって行く。この前と同じでいいの。構わないの。早く終わらせて欲しいの。別な何かを知ってしまいそうな気がして、恐くて、わたしは、もう震えはじめている唇を押さえながら、青樹を見た。”やめて・・”。

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第二章 禁断・はぎ香 <9>

次の週、光彦にやっと会えたけれど、学校で習ったそれは、始まりと教えられたけれど、わたしには、もう終わってしまったと思えて、胸の痛みより、新しく知った空しさの方が強かった。

それでも、わたしは、光彦の視線に気が付くたび、笑顔さえ作った。俯かないようにと気を付けて、お母さまと光彦の会話を聞いている風に見せて、いつも通りにしていたいと、それだけを考えて、わざわざ、一緒に過ごしていた。

やがて、七時になって、仕事に行くために、お母さまが立ち上がり、光彦も見送るために居間を出た。わたしは、もう、耐えられないと思った。光彦との二人きりの時間なんて、辛すぎる。

いつも、いつも、話したいことがあんなにあったのに、今はもう、何も言葉になりそうにない。かといって、おやすみも言わずに二階へ行くこともできず、わたしは、もう一度シャワーを浴びながら、そこで、しばらく泣いて気持ちを鎮めた。居間に戻ると、もう光彦の姿はなかった。淋しくても、それで少しホッとする。

光彦の部屋を意識して静かに歩いたつもりだったのに、光彦の部屋の扉がゆっくりと開いた。

「オヤスミナサイ」

先に声をかけて行き過ぎようとするわたしの腕を、光彦は軽くつかんだ。わたしは一瞬だけ光彦の顔を見て目を伏せた。屈託のない明るい目の色を、もう見ていられない。

「お母さまと、何か、あった?」

「いいえ。何も・・」

と、やっと応えた自分の声が大人びているようで、嫌悪を感じる。

「この前、来てくれて嬉しかった。夕方に帰れてね、すぐ電話したんだよ。でも、資料館に行ってたんだって?」

ああ・・どうして!家にいなかったの・・・どうして!

「はぎ香。いいもの見つけたよ。何だと思う?わからない?」

「・・・・・」

「大切にし過ぎて失くしてしまったもの。T.S.の「みづうみ」。はぎ香の持っていたのと同じ挿絵のを古本屋で見つけたんだ。その持ち主は、はぎ香ほど熱心じゃなかったのか、いや、もっと熱心だったのかな?新品同様に綺麗だろう?」

ありがとう。でも。もう子どもじゃなくなった。

『黄色い鳥なんて嫌いだ!』と言った、ラインハルトの姿と光彦の姿が重なって、大好きだった、ラインハルト。ラインハルトがエリーザベトにあげたベニヒワが死んでしまって、代わりに、鳥かごには婚約者から贈られたカナリアがいた。

たとえ、家庭の事情があって何も言えなくても、せめて、そのカナリアを空に放して、ラインハルトの気持ちに応えてあげたいと、何度も、読むたびに思った。けれど、もう、そんな日々は過ぎてしまった。ラインハルトも、何もかも、もう、わたしの前からは消えてしまった・・・。光彦の渡してくれた、装丁の良い懐かしい「みづうみ」を抱いて、エリーザベトのように、何も言えない。

『はぎ香』と呼んで、光彦がわたしの目を見ようとするのを嫌って、わたしは、光彦の胸に顔を埋めた。変に思われても、もういい。今こうして光彦に寄りかからなかったら、わたしは、あの忌まわしい青樹に魂までも渡してしまいそうで、恐いの。

窓際に立ったままの、あんな形で迫った。そして、もっと非道いのは、愛情も、恋しい気持ちも何もなくて、ただ、軽い気持ちで抱きたいだけなんて、嫌がる女の子に噛み付いてまで無理矢理に教えてしまった、あんな乱暴で、卑怯な人に、わたしは絶対に傾かない。わたしの好きな人は、これからも、ずっと光彦。報われなくてもいいの。わたしが、そうなりたいと願う人は光彦一人。そんな日は来ないのだけど、それでも、わたしは、いつまでも光彦。

けれど、どんなに光彦を思い続けると心に誓っても、やはり、その人は、お兄さまなのだから、諦めなくてはいけないように運命づけられていたと空しくて、胸に縋っていながら、一言も、何も、打ち明けられるはずもなくて、涙ばかり溢れた。

やはり、いけなかったのだ。何も知らない子どものまま、それを、お兄さまに教えてもらいたいと考えるなんて。わたしがいけないの。光彦はそんな人ではないわ。わたしたちは兄妹だもの。

光彦は、何も聞かなかったけれど、温かい手をわたしの背中に置いて、少しづつ、今までとは違う強さで、わたしを抱いてくれていた。わたしの哀しい気持ちと同じくらいの強さ・・・光彦に、そんな風に抱かれるのは初めてだった。

時が止まるように過ぎて、気が付くと、わたしの髪を、小さい子どもを慰めるように撫でていた光彦は、肩を抱いて、『おいで』と言ってくれた。『もう少し話さないか』と。わたしは、ただ首を振った。わたしたちは、もう無言のまま、静かに離れた。眠れなかった。生理がナイなんて、光彦にも・・・だから、もう誰にも言えない。

あの日から、一ヶ月近く経って、青樹から逢いたいと電話があった。雨の落ちる葉桜の下で、温かい炎が揺らめく暖炉の傍で、楽しく話したことが、少しは思い出されたけれど、話している自分の声が他人の声のように聞こえる違和感。やはり、わたしの中で、何か違ってしまったの?

わたしは、もう忘れそうな青樹と、もう一度逢うことにした。青樹とのことで、本当に憂鬱だったのは、三日間だけ。全ての心の悩みを一晩で解きほぐして、片付けられるわたしにしては、いつもより三倍の時間がかかっただけ。そして、心の中にはいつも光彦の姿があって、青樹へと気持ちが流されることもなくて、わたしは、あの日のショックに打ち克った、負けなかったと、自分を誇らしくさえ思っていた。

でも、不思議だったけれど、たぶん、いつも正常だった生理が止まってしまったのは、わたしのココロ?とは別に、わたしの身体?が、もしかして、司る脳のその部分がダメージを受け続けているからだと感じた。わからないけれど。逆かもしれないけれど。

あの瞬間の、あの固く、あまりにも鋭く身体を突き刺したと思う、未知の衝撃。それを、もう一度体験すれば、きっと、わたしの身体も、そのショックから解放されるはず・・・と。

それは、小さい頃、山の中に奥深く分け入って、迷いながらも恐れず、枯れ葉に被われた乾いた谷でも、それを下へ下へと辿り続ければ、きっと、山の雫が小さな流れに変わる所に出て、そして、さらに辿れば必ず人家が見つかると信じた時のように、本能的に感じていた。

約束をした日、わたしはお守りのように、光彦のあの水色のシャツを着て出かけた。でも。北のターミナルへわたしを迎えに来ていた青樹の、落ち着いてやさしく見ている感じに、わたしは、もう一人ぼっちも同然なのだからと、気持ちが青樹に寄りかかりそうになる。

もしも、もしも、これが妊娠だとすれば、わたしが相談できる人は、この青樹しかないのではないかしら、そんなことになっても、ならなくても、もう今から、淋しくなった時、わたしが頼れる人は、青樹より外にないのではないかしら、と心が激しく揺らぐ。

公園から、いつも違う人の肩を抱いて出て来るって。学校のプールサイドで青樹の同級生たちが話していた。こんな綺麗な目をしている人でも・・・でも、わたしは、絶対に許せない。どんなことがあっても心を傾けない。もし、そんな日があるとすれば、それは、この世界の終わりの時・・・。アリエナイ。

青樹が、ベッドに入ったわたしの手を握った時、わたしは、もう一度、自分の気持ちを強く確かめて、青樹を見つめた。

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第二章 禁断・はぎ香 <8>

兄である人を想うことは、本当に、そんなにいけないことなのだろうか。何も始まらないのに。これからも、わたしたちには何も起こらない。

光彦は、わたしの知らない人を選び、わたしには入ることの出来ない世界を、その人のために造り上げる。光彦は、その人の黒髪に触れ、白い頬に触れ、やさしく、その人の手を握り、そして、わたしには決して許されない、そのことも、その人には許される・・・寂しい。 

人の気配がして横を向くと、少し離れたところに、広い肩と長い手足の青樹の姿があった。どこまでも遠くを見つめて揺るぎない、その目が、ピタッとわたしに焦点を合わせたかと思うと、次の瞬間、微笑みかけてきた。人なつっこい生きもののようなやさしさで。

ずっと以前、光彦が寝言で言った。”大好きだよ。青樹・・・”それも仕方のないことかもしれないと思うほどの、謎めいて、それでいて、自然そのものの化身のようにも感じられる美しさ。

青樹のさしかけてくれた傘は、きれいな花模様の傘だったけれど、いかにも男物らしく大きな傘で、そして、その時、青樹の目の高さが、光彦と同じくらいの位置にあるのを懐かしい角度で見上げながら、そんな青樹の親切に気持ちが甘えた。

エイリアンだと、いつも遠巻きに見ていたあの青樹が、笑ったり話したりするのを不思議な気持ちになって見た。それに、青樹は、本当に、わたしの兄のように、わたしのおしゃべりを聴いてくれて、『それで?』と、やさしく促して言ってくれるのも似ている。

間近で見る青樹の、緑に透けて見える目を、なんとなく懐かしいと思う。空色に光って見える白い部分が冷たいくらいに澄み切っていて、わたしは引き込まれそうになって見つめた。視力が、7.0もあるって本当かもしれない。

長い黒髪と、その黒髪に少し隠れているけれど、広い額の青く透き通るような白さ。彼こそ、先祖帰りの人のよう・・・だけど、とても綺麗。その額から鼻へと続く線の希な美しさに、わたしは、いつか二十世紀資料室の写真にあった、小舟に乗って漁をするラカンドン族の青年の、高貴で飾らない、無垢なやさしさの宿る横顔を思い出した。

わたしのお父さまも、こんな風な横顔だったかしら?と、わたしは、もう、あの少年時代の写真でしか思い出せない父のことを考えて、青樹にいっぱい話し掛けながら、色々に想像した。

あれは、兄であるはずの光彦を恋びとのように想ってばかりいるわたしに、天の罰がくだされたの・・・?なぜ?やさしいと思った青樹が、わたしを悲しい目にあわせたの・・・?わたしは、なぜ?あの時、もっと抵抗できなかったの・・・?恐くて。恐くて身体が動かなくなってしまったの。

でも、その前に、わたしの唇に青樹の唇が触れたと感じた時に、なぜ、帰ろうと思わなかったのかしら?雅彦が近づいたときには、上手にそらすことが出来たのに・・・。わたしは、男女の生殖器の形と位置の違いや機能を知っていながら、本当は何も分かっていなかったの。

あの白い屋根裏に上がるまでは、青樹はどこまでもやさしかった。だから、ありがとうを言って、いつでも帰ることが出来たと思う。青樹の唇に気がついた時も、イヤと言えば、青樹はやめてくれた。そして、『まだ帰らなくていいの?』と、やさしく聞いてさえくれた。

わたしは本当に何も分かっていなかった。もう、帰らなくてはいけないということすら分かっていなかった。青樹の胸が温かくて、ずっと傍にいて、家には帰りたくなかった。まるで、兄のようなこの人はソウルメイトに違いないと感じて、慕わしい気持ちでいっぱいだった。

けれど、ソウルメイトかもしれないけれど、その人は、わたしなどはとても敵わない強い力を持つ男の人だった。そんなことも分からずに、わたしは、あまりにも無防備に青樹を慕った。屋根裏に上がる途中で、『いいの?』と、聞いた青樹の言葉が念を押しているということにも気付かずに、わたしは、『かえりたくないの』と、幼く応えてしまっていた。

階段から、眺めの良い窓際まで、青樹の腕に抱き上げられていったわたしは、お父さまに抱かれているみたいな気持ちにもなっていたの。わたしは、わたしの後ろで上着を取った青樹の黒の中着姿を綺麗だと思って見つめていた。広い背中に流れる艶やかな黒髪。あの透き通るような白さの皮膚だったけれど、鍛えられて無駄のない美しい形の肩や腕。わたしは描き留めたいと思うほどに見惚れていた。

ハッと気が付くと、その青樹の腕が後ろからわたしを抱きしめて、『少しでいいんだ』と囁いた。分からなかった。『僕も支えるけれど、君も少しこの窓につかまっていれば楽だから』

わたしは、初めて恐くなって、けれど、身体は窓際にぶつかっていて、青樹の腕の強さにも勝てなくて・・・自由が利かない。

「わからないこと言わないで・・・はぎ香」

「・・・・・」

「僕に任せて・・・」

「イヤ・・・」

「少しでいいんだ。すぐだよ・・・」

「イヤ・・!」

「軽くでいいから・・君としたい・・・」

『やめて・・』と叫んだつもりの声がかすれて、床に倒れたわたしを支える代わりにわたしの肩を噛んだ青樹が恐くて。青樹の指先が恐くて。わたしは諦めたように動けなくなってしまった。

やさしいと錯覚しそうなほどに、丁寧に体液を拭ってくれた青樹。洗う水音。もう何も力が出なくて起き上がることさえ出来ないわたし。たくさんのギャザーの長い下着を着けるのは大好きだけど。昔ながらの小さな下着はキライで付けないでいた。気持ちいいから。おしゃれな大人の女性の真似をしていた。それも・・いけなかったの?

さっきは噛み付いたところを、青樹は慰めるように触れてきて、わたしに何か話しかけていたけれど、わたしは、聞きたくないし、聞き取れないでいた。青樹は、ゆっくりと、わたしの身体起こして、わたしを抱き上げた。

青樹は、わたしをバスルームへ降ろすと、慣れているのか、とても器用に、アッと言う間にわたしの下半身の衣服を脱がせてしまって、そして、あれは何て言ったらいいのか、青樹はお兄さまのように?わたしの複雑な部分をシャワーと左の指先とで、さらさらと、とてもきれいに洗い流してくれた。そして、その後も、やさしく身体を拭いてくれるので、わたしは、口をききたくないせいもあって、何もかも青樹に委ねていた。着る時でさえ、まだ、ぼんやりと、青樹の手を借りていた。

「・・・でも・・はぎ香・・君、初めて?」

青樹の静かに聞く声が漸く耳に入って、それでも、まだ、わたしは声にはならず、ただ頷いた。手を握ってくれる青樹は、やさしい人のような気がした。けれど、だんだんと意識が戻ってくると、もう、わたしには打ち解けることの出来ない恐ろしい人、もう顔を見るのも嫌な疎ましい人でしかなかった。                                                                                                                                                                                                                 

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第二章 禁断・はぎ香 <7>

わたしの中に、誰にも言えない秘密が棲みついてしまったと、また涙ぐんでしまう。光彦が、お兄さまであることが、今までは幸せなことだったのに。

友だちが、

「えー-っ!一緒に寝てくれるの?嘘?髪も撫でてくれる!本当?それから?手を握ってくれる。それから?」

「それだけ」

「それだけ?信じられない!ずーーーっと、それだけ?」

「それだけ」

「優しそうに見えるけど。本当に優しいのね。いいな。妹にそんなに優しいお兄さんなんていないよー!きっと、本物の紳士なのね。うちの兄貴なんて、もう、すっごく助平で、野蛮で、熱出して唸ってたって、私、近づかないわぁ」

とまで言って、本当は仲の良いおにいさんのことを、そんな風に言って、わたしと光彦との関係を羨ましがってくれるのが嬉しかったのに。もう今は、光彦を『お兄さま』と呼ぶことが辛いなんて。

これからも、今まで通り、わたしは、無邪気な妹のまま、光彦の傍に眠るのかしら・・・。でも、ずっと、そうして来ているのだから、急に一人で眠るなんて言ったら、かえって、変に思うかもしれない。それに、いちばん長く傍にいられる時間を失くしてしまうなんて、できない。傍にいたい。早く会いたいと、光彦の帰る日を、今まで以上に待ち焦がれた。

けれど、光彦は、朝も昼も夜も、夜中も、通信社の仕事は楽しい、楽しいけれど、とても忙しいと言い、そして、ある時は、急いで特訓してあげたい生徒がいるから帰れないと言い、そして、また、この前なんて、

「講座を修了しても、お互い交流が保てるようにと話し合って、合唱団を創ったんだよ、”フルブライト・ハモニカ”。メンバーは、まだ二十一人しかいないんだけど」

と、色々な理由を、電話の向こうで楽しそうに話して、D村に帰る日なんてないみたいに言って平気なの。わたしも、「流浪の民」大好きよ。でも、あんまり、そんなだと、わたし毎日、放浪の人になって、六つ違いの人にだって予約するよ。わたし、本当は寂しがり屋だもの・・・知らないでしょ?って思った。

明日こそは、お兄さま=光彦に会えると思った日、お母さまに電話が入り、どうしても帰れなくなったと、また言っているらしい。わたしは、ガッカリし過ぎてしまって、部屋に閉じこもった。お母さまに何か言われたら、『あなたの真似をしただけ』と、言ってやりたい。でも、お母さまは、何も、声もかけずに、出かけて行った。わたしを見ていたくないから、ちょうどいいのだ。何もかもイヤになりそうだ。愛してくれるはずの、父も母も、わたしには、ない。

次の日も、学校には欠席届を出した。誰かが親切に訪ねてくれてもイヤだから・・・と、家を出たわたしは、Q市に向かうエア・ワゴンに乗っていた。光彦が迷惑するかもしれないと思ったけれど、光彦の仕事場を尋ねて行った。もう、セキュリティの会社も南下してからは、光彦の言っていた通り、ドアは開け放されたままの小さなオフィスだったので、子どものわたしにも臆せず入って行けた。

この通信社は、世界各地のニュースを、各家庭の画面には文字を中心に流していて、音声と映像は選択できるようになっている。一つの班を、リーダーを含めた十三人で構成していて、二人一組の六交替制になっていた。四時間ずつの二十四時間体制だった。各地の報道局からのニュースを項目別の決められた文字数の範囲で、頭の中で瞬時に文章化して処理しながら、受像番号と一緒に打ち込む。

この仕事は、初めは、目も耳も頭も疲れて、地味で、慣れてくると余計に機械的な、それでいて、決して気を抜くことは出来ない仕事だとも、光彦は言っていた。視聴率も給料も悪くはない、良いらしいけれど、やはり、アルバイトで短期間だけ働く人の多い職業の一つだそうだ。

光彦は、リーダーとしての研修も兼ねて、R県の本社の人たちとバイカル湖あたりまで出かけているので、帰るのは夜遅くか、明日の朝になるということで、会えなかった。

お母さまは、眠っているだろうからと思いながらも、詮索されるのがイヤで、明るいうちに一旦、家に帰り、起きていたお母さまに、友だちと資料館へ行くと嘘を言って、また、街へ出た。公園の方は避けて、山裾の小川の傍の石畳の道を歩いた。

枝ばかりの時には小さく見えた木々が、生き生きと芽吹いて、”本当はこんなに大きいよ”と話すので、見上げて、わたしは、『すごーい!』と、思わず声にして応えた。少し行くと、家々の敷地の境界線代わりに植えられた桜の木も、別な花を咲かせているかのように小さな葉をつけ始めて美しく、また、生垣なども、元の濃い緑の葉の上に、薄くて柔らかくて、サラダにしたいような新しい葉をいくつも重ねて、誇らしげに微笑むので、わたしも、”素敵ね”と、微笑む。

いつの間にか雨が降り出していたけれど、語りかけて止まない木々の緑に包まれて、わたしも、同じ天の恵みに打たれていたいと、目を閉じた。天は全てを拒まず受け容れて、どんな願いも、真に祈れば、全て、叶えてくださる。わたしは、熱い気持ちで天に訴えた。

”ああ、お兄さまと一緒に、この緑の中に、この雨の中に、二人きりになれたら・・・。”

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第二章 禁断・はぎ香 <6>

指先も、手のひらも、手の甲でさえも、さらさらと触れ合うたびに、身体の中で膨らんでゆく熱い何か。身体の中の空しさでいっぱいの何かを外へ押し出してくれそうな、新しい感覚が目覚めようとしている。わたしの周りに、ファースト・キスの相手は雅彦だったという女の子が幾人もいた。分かるような気がしていたけれど、今、もっと分かる気がした。

白々と夜が明け始める中で、わたしは、あの北のA市が、コマキ一族の農場として生まれ変わりつつあるという、雅彦の話に、そんなA市を観てみたいなあと思い聴いていた。わたしたちの手は、まだ戯れるように絡み合って、”さらさら”を愉しんでいた。

けれど、急に、雅彦は、『おいで!』と、触れていた手を強く握ると、プラザの裏へ向かって走り、さらにどんどん駆けた。わたしも、訳のわからないまま、それでも楽しくなって一生懸命に駆けて、すると、広いコマキ厩舎の前に出ていた。

雅彦は息を整え、わたしを振り返ると、一頭の白い馬に近づいた。そして、『まだ眠いかな。ちょっと頼まれてくれないか。サヤカ?』と、優しく話しかけている。

”サヤカ”だって!と、思いながら、”乗るんだ”と、胸がわくわくする。成人の日の祝いなんて別にいらなかったけれど、この馬を自分の馬にしたいと、お父さまに言ったら、本当にそうしてくれたと、嬉しそうだ。『いいなあ!』と、わたしにしては珍しく、心の底から羨ましくて言ってしまった。

『そんな我が儘を言ったのは初めてだったんだよ』と、雅彦は気にするように言ったけれど、『すごいなあ!』と、わたしは大きく口を開けて、また言ってしまった。馬の目が若々しく、美しい。

雅彦の胸と腕に守られて、いちばん近い距離になった雅彦に何の違和感もなく、むしろ、その夜の自然な気持ちのまま、わたしたちはサヤカの上にいた。そうして、プラザの庭を散歩するのだと、そう思ったのだけど、雅彦が手綱でサヤカに示したのは、南のターミナルと北のターミナルを結ぶ、公園の前の大通りだった。

確かに、車の通らない歩行者専用の広い通りがあって、この時間なら、人も少ないかもしれないけれど、『警備隊の人たちに咎められない?』と、聞くと、『大丈夫さ。堂々と身分証明を見せて、俺たち緊急事態って、ね!』と言う。

雅彦は、転校した体育系予選校で資格を得て、救急救命隊員としてボランティア登録していて、週に一度は、その任務に就いているそうだった。だから、そんなこといけないのにと思っても、やっぱり楽しかった。

公園の前にさしかかると、まばらでも、思ったより人は多くて、ああ、どうしようと、雅彦の胸にぴったりと顔をくっつけていた。けれど、口笛や奇声が飛ぶだけで、警備隊がたちまち現れるというような大袈裟なことにもならなくて、むしろ、知り合いらしく、雅彦に手を挙げる人たちもいる中を、わたしたちはサヤカと疾走した。

あとで聞いた。あの人(雅彦)が、あんなことをするなんて。一体どうしたんだ。今まで、あり得ないことだったのに。どうしたんだと、周りの大人たちが、すごく心配していたと。次の朝も、本当は、おうちの大切な用事があったのに、それにも初めて遅刻したって。

北のターミナルを通り過ぎて、萩山の山裾で、雅彦は閉じられていた重そうな鋼鉄の扉を開けて、サヤカとわたしを導きいれて、また錠をおろした。そこは、以前は、展望台へ登る道として誰もが通っていた道だったそうだけれど、南下者が続出し、また、残った僅かな人々も計画田園都市へと移動してしまい、廃墟と化したA市を眺める人など、もう誰もいなくなって、今は、山の持ち主である雅彦の家が管理をしているだけだった。

「でもね。もう少しすると、この展望台も整備されて、再開されると思うよ」

と、雅彦の言う通り、それは、信じられないほどの夢のような、いえ、目の覚めるような眺めだった。あのA市の、灰色一色に思える廃屋の集まりでしかなかった街が、その街並みの跡形もなくて、美しい緑の農場に生まれ変わっている。

東側の斜面にはサーキット場の建設が進み、その周りの運動公園には、42,195キロの、それも激しい起伏をそのまま利用したマラソンコースが設けられるという。そして、西側の斜面下には競馬場が、もう、ほとんど、完成に近い。

小さい頃、クラスの男の子たちに一人だけ混じって、実は、恐がる男の子たちを家来のように引き連れて、「探検」に行ったときのA市の無気味さがいつまでも記憶に残っていて、広報などに最近のA市のことが載っていても、ピンと来なかった。けれど、今、目の前の広大な緑の平野は、間違いなく、そのA市だった。

展望台で、溜息まじりの深呼吸を繰り返し、ひとしきり話したあと、傍の小さな仮小屋で、朝ごはんと言って、雅彦は、サラダの缶を開けてくれた。向かい合って食べていると、急に気恥ずかしくなって、フォークを持つ手がぎこちなくなる。

わたしたちは、サヤカから降りてA市を眺めている間も、ゆうべの夢の続きを見ていたいように、その手を繋ぎ合っていた。そして、今は手を離して向かい合っているのだけど、わたしの中には、まるで一晩中、雅彦の胸に優しく抱きしめられて朝を迎えたような、そんな不思議な感覚が残っていて、雅彦の目を見るのが眩しい。そして、目が合うと、雅彦もまた、少し困ったような眩しい目になってニッコリする。なんて優しい目で見てくれるのと、わたしは嬉しくなった。

もしかして、と思った。もしかして・・・愛する人と、初めて二人きりになった次の朝って、こんな感じ?かもしれないと、胸が温かくなる。

雅彦もわたしも、その小屋で歯を磨き、顔を洗って山を降りた。少し早いけれど、予選校へ行くというと、わたしを北のターミナルまで送ってくれた。雅彦は?あの大通りをまた戻るの?と聞くと、『いや、もうこの時間だから考えないとね』と、残念そうに笑う顔は、やはり、大人の顔だ。

『ついでだから、おばあさまにサヤカを見せに行くよ。良かったら、君も来ない?』と、誘ってくれたけれど、月曜日は休みたくない授業がいっぱいあるのと言うと、もう、それ以上は言わなかった。

別れるとき、わたしの耳元に唇を近づけて、何を言うのかと思ったら、雅彦は、『はぎ香。バージン?』と、聞くのだった。何てことを。普通、そんなこと聞くかしらと思ったけれど、雅彦にそう聞かれることは、少しもイヤではないのに気付いた。雅彦以外の人から、そんな風に聞かれたのだったら、吐きそうな気持ちになっていたと思う。それなのに、何故か、雅彦は赦せた。まるで嫌味のない大らかな言い方に、何か安心にも似た大人しい気持ちになって、わたしは頷いた。

「だよね。やっぱり。だめだよ。男と二人きりで、人気のない山になんか登ったりしちゃ」

と、連れて行ったのは自分なのに、そんな風に言うので、おかしくなった。

「男なんて、みんな、ロクでもないこと考えてるんだから」

「雅彦は違うもん」

わたしは、楽しい気持ちで言った。

「まさか。俺なんて、ゆうべから、ず~っと!」

と言う。あ・・・と、少しだけ恐くなった。けれど、雅彦は、コワバルわたしの気持ちなど気にしないで言っていた。

『はぎ香。バイバイバージンの決心したら、俺のところへおいでね。絶対、優しくするから。』と。そして、『流行ってるんだろう?六つ違いの男に予約するの』

「うそ。うそ。そんなの流行ってない」

と、わたしは、甘えた気持ちになって雅彦を見上げた。

「七月二十日なんて、どう?俺の誕生日だから、俺は、一生、君を忘れないっていうの、いいだろう?良くない?」

「良くない!」

「でも、まさか、今時、結婚までなんて思わないだろう?」

「思う」

と、わたしは、からかわれてもいいからと、正直に言った。雅彦は、笑わなかった。まるで、お兄さまのように、わたしをじっと見た。

「だって。わたしの場合、そうなりたい人は、結婚したい人だもの」

と、その目の優しさに、わたしは打ち解けて、アカラサマニ言っていた。雅彦のキラッと光る目も、光彦のように明るくて男っぽい。

「そういうひと、もう、いるの?」

「いないけど・・・」

わたしは、半分だけ本当で、半分は嘘を言ったと思った。だって。わたしは、光彦とケッコンしたいけれど。出来ないもの。と、子どもっぽく漠然と思った。

「じゃ!俺、待ってるからね!」

本気とも、冗談とも分からない、明るい声で言って、雅彦は来た道を去って行った。

こんな言い方、どうかと思うけれど。まるで、王子さまのような雅彦と、どこかしら謎めいてエイリアンのような青樹と、純真なエロスのような光彦と。プラザのスケートリンクで仲良しだったころから、三人の中で、雅彦は、いちばん背が高く、いちばん大人びた雰囲気を持っていた。細面だけど、頬のふくらみの形の良さが魅力的で、大きすぎない目鼻立ちなのに、キラッと光る目をして笑う顔は、とても華やかに見えて、男らしい美しさを感じた。

兎に角、ハンサム?ハンサム!という古語がとても似合って、でも、それ以上にセクシー?セクシー!だった。わたしは、雅彦の何もかもに好感を持った。けれど、それなのに、やはり、この人ではないという声が、どこかでしていて、すごく感じてもいるのに、どうしても、バイバイバージンなんて、そんな気持ちにはなれそうになかった。

わたしは、雅彦に感じる分だけ、また、恐いとも思った。雅彦という人が恐いというよりも、まだ知りたくないことなのに、このまま、大人びた雅彦と会っていると、知ってしまうのかもしれないと、それが、恐いのだった。わたしは、夜の散歩をためらった。散歩のことも、雅彦のことも、何も知らない光彦が、電話の向こうで心配していた。

「はぎ香。ゆうべ、どうして電話に出なかった?また、ベートーヴェン?ヘッドフォンも使い過ぎると耳を悪くするぞ。特にベートーヴェンは良くない」

わたしと光彦は、約束してはいなかったけれど、土曜日の夕方に、光彦はよく電話をくれた。でも、先週は、いつもの時間をとっくに過ぎても、電話がなくて、わたしの方からかけても全部、留守番電話になっていて。光彦がQ市に行ってから、そんな土曜日は初めてだった。次の日もそうだった。だから、雅彦のいるプラザを訪ねて楽しかったけれど・・・と、考えた。

「違うの。眠くって。起きられなかったの。きっと。お兄さまは?どうして?いなかった?」

「急に、生徒の一人が訪ねて来てね、外に出て話し込んでいたから」

と、光彦は言った。

「女の人?」

と、わたしは、聞きたくて聞いてしまった。光彦には、一瞬のためらいのような間があるのを感じて、寂しい気持ちになる。

「いや・・・。男だよ」

と、光彦は言ったけれど、嘘をつかれているみたいに、一層、寂しくなる。光彦が嘘を言うはずもないし、わたしに、嘘をつかないといけない理由なんて、どこにもないのに、わたしって変だ、すごく変だ思いながら、寂しい。

シャワーを浴びながら、わたしは、遊びになりそうだからと感じて、もう、雅彦のところへ出かけるのは、よそうと決めた。悪いことだとは思わないけれど。光彦に言いにくいこと、言えば、余計に心配しそうなことをするのは、もう、やめようと思った。

いつも冷たい、お母さまが、もし嘆いたって平気だけど。いつも優しい光彦が、わたしのせいで、明るい顔を曇らせるのは、見たくないから。

お母さまが出かけたあと、光彦の部屋で、光彦の水色のシャツを着て、光彦のベッドに横たわって、そう考えていた。会いたい・・・と。聴いたばかりの光彦の明るい声を思い出しながら、いつもだと嬉しくて眠れるのに、その夜は、余計に寂しくなるばかりで、眠れない。

手を触れ合っていた人が、お兄さまで、『おいで・・・優しくするから』と言ってくれる人がお兄さまだったら、と。まさか、と自分でも驚きながら、お父さま以上に、お母さま以上に、いくら慕わしくて大切でも、わたしたちは兄妹なのだから・・・いけないのだから・・・と、湧き上がってくる気持ちを振り払って、もう眠らなければと、目を閉じたとき、闇の中に光りが差し込むみたいに、光彦の涼しくて、眩しいような目をした優しい顔が、頭の中にいっぱいに広がって、わたしを、わたしの全部を被うように包んだ。

幻なのに、しっかりと抱きしめられているような息苦しさに、わたしは両手で光彦のシャツを握りしめたけれど、胸の底から、身体の奥から、光彦への想いが、もう、はっきりと言葉になって表れ、全身から強い痛みが胸に集まって突き刺さる。会えなくて!恋しくて!会いたくて!抱きしめてほしくて!

あまりにも気持ちが揺れて、泣いている自分が、いつ眠ったのかも分からなかった。そして、目が覚めても、わたしの胸の中、頭の中は、光彦でいっぱいになったままだった。

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第二章 禁断・はぎ香 <5>

「はぎ香ちゃん」

なんて、光彦が呼んだ。すねていたつもりはなかったのだけれど、淋しくて黙ってしまっただけだったけれど、そんな、わたしの気持ちも知らないで、たくさんたくさん、しゃべるのだもの。

「かわいい子には旅をさせろって、昔から言うだろう?それから、少年よ大志を抱け、って言うのもあるだろう?でも、今の僕にぴったりなのがあるんだよ。”青年は荒野をめざす”って言うんだ。素敵だろう?ね?親切な先生や、優しい友達とも別れて、そして、お母さまやはぎ香のいる楽しい家も離れてね、どうしても、僕には、今行かなくてはって、天の声が聞こえるから。でもね、そこが荒野だからと言って、陽が昇らないということはないんだよ。いつか、荒野の果てに陽の光りを見つけたら・・・、僕は、きっと、はぎ香を呼びに来るよ。その時は、僕と一緒に行く?」

「・・・・・」

「君は、『飼育』派?だったね・・・」

「・・・・・」

「はぎ香ちゃん・・・?」

わたしの方へ向き直った光彦の髪が、わたしの額に触れるほど近くて、光彦は目を伏せて言っていた。

「僕を待っていてくれる?」

何か、とても大事な約束のように聞こえて嬉しくなったから、光彦の胸に寄りかかって応えた。

「イヤよ。待たない!」

光彦の手の温もりが髪から伝わって、まるで、一緒に眠る時のように気持ち良くて、長い間、胸にもたれていた。

「嘘つき・・・」

と、しばらくして、光彦が耳元で言った。

「誰よりも、僕に惚れているくせに!」

おかしくなって、やっと、胸から顔を離して笑った。淋しいけれど、何か楽しくて、二人で笑った。

わたしが、間違っているのかもしれなかった。お母さまが、わたしに対して、何か非道い仕打ちをするということはなかった。ただ、光彦が家を離れてから、わたしの食事は、朝も夜も、いつも、お母さまとは、すれ違っているかのように、一人きりになった。そんな気がしていたわ、分かっていた・・と思いながらも、やはり、何か不満で腹立たしい。

他人を羨んだり、他人のものを欲しがったりすることは少ない、わたしの性格だったけれど・・・わたしは、お兄さまの存在ひとつで全て満たされていたから・・・けれど、よく笑う頼りになりそうな、おかあさんを中心に、兄妹が多くて、しかも、その内の一人は、身体が弱かったりするのに、とても、楽しく食卓を囲む、わたしと仲の良い友人の家庭を、わたしは憧れるような思いで、いつも思い返した。

わたしも、結婚したら、子どもは五人欲しい・・・と、結婚のことなど、まだ、何も考えはしなかったけれど、生まれてくる子どもの人数だけは決めていたりする。

それでも、お母さまが、少しはやさしいように思える時もあった。お母さまは、『わたしと同じ髪の色にしてね』と、約束したがる子どものように、わたしにいつも言っていた。

クラスの中にも、髪を染め、ウエーブをかけている人は大勢いたけれど、わたしの場合は眉も睫毛も、お母さまの髪の色に似せて、明るい茶色にしていて、それは、もう、物心ついてからずっと習慣になっていた。

美容院から戻ったわたしを見るお母さまは、その時だけ、満足そうに、イトオシソウニ、みてくれる。それから、わたしの皮膚が、もっと陽に焼けやすいタイプの皮膚だったらいいのにと、その時は、笑顔の中で、目が強い光を放っていた。

この島を離れて、もっと南の島に移住する人が続出していた頃は、人口は二千万人にも減ってしまっていたそうだけど、あちこちに計画田園都市が、地域の人々によって整備されてからは、また、倍近くになってきている。

この島は、昔から、降雨量が多くて、海の幸だけではなくて、野の幸、山の幸、川の幸も豊かだったのが知られて、やがて来ると言われ続けている旱魃を恐れる人々が、西の内陸部から集まってきていた。

様々な髪の色、皮膚の色の人々がたくさん渡って来るようになって、あっという間に混血が進んでいた。そんな中で、特に計画田園都市の中で、黒い瞳と、黒い髪と青いくらいの白い皮膚をした子どもを持っていることがイヤなのかしら。わたしが母親だったら、むしろ、珍しくて素敵よって言うのにと思う。

わたしは、決して、醜い先祖がえりなんかじゃない。わたしはお父さまに似たのだから仕方ない・・・と、予選校の入学の時に、お母さまから渡された、たった一枚の、お父さまの少年時代?の写真をみる。十六歳のお父さま。十六歳という年齢よりも大人びて見える微笑。

光彦はお母さまに似ていて、わたしは、どちらかというと、お父さまに似ている。仕方ない。男の子は母親に似ることが多くて、女の子は父親に似ることが多いって言うけれど、それって本当だもの。

わたしは、十三歳になってすぐの夏至の日に、技芸術予選校に入学し、舞台芸術を専攻していた。その一年目が終わる少し前の春から、わたしは、一人、夜の散歩を楽しむようになった。

この頃は、月に一度も帰らない光彦。光彦の三つ持っている番号にかけても、全部繋がらなくて、全部留守番電話。わたし、○スだから、たまには、こう言うの。

「今日もかわいい、あなたのはぎ香」

大人びて聞こえるように、少し声を落として言うの。光彦と親しかった、予選校の人気DJ”白雪姫”のように。長い黒髪が美しくて、光彦より二歳年上の男の人?だった。光彦には、たくさんの友だちがいたけれど、電話でいちばん長く話していたのが、その男の人?だったから。

そんな風にメッセージを残して、その時だけ楽しくて、すぐに淋しくなる。淋しくて、言葉にならない何かが胸いっぱいになるの。そして、どうしていいのか分からないほどの、空しいみたいな感じが這うようにして身体に登って来て、とても不安な気持ちになる。そんな奇妙な空しさを追い出したくて、何かを求めていた。誰かの何かが欲しいと、心も身体も訴えているようだけれど、誰に何を、どう求めていいのかも、何も分からない。

わたしは、プラザの庭の灯りに映える桜の美しさに見惚(と)れて近づき、雅彦と会った。偶然、窓辺にいた雅彦が、『はぎ香!』と、自分の妹を呼ぶみたいに、わたしの名を呼んだ。

わたしも、雅彦の、光彦とよく似た褐色の皮膚や曲のある髪に親しみを感じて、空から降りそそぐ桜の花の香りにも惹かれて、毎晩出かけて、窓から雅彦を呼んだ。そして、ある晩、桜の木の下で待つ雅彦の手が、まるで、光彦の手のように、やさしく触れてくることに、わたしは夢中になった。

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第二章 禁断・はぎ香 <4>

光彦の部屋は、元は応接室?だったので、子ども部屋と言うには渋すぎなの。正面の壁に二つある出窓と出窓の間に、ガッシリとした大きな勉強机。右手の南の広い窓の下には、分厚い本がギッシリ。左手の北の壁一面には暗い色をした戸棚の扉があって、そして、その前に、少し場違いな感じで白木のベッドを置いている。でも、オレンジとピーチのストライプのベッドカバーは明るくて、金緑色の髪と、淡い褐色の皮膚の光彦にすごく良く似合っているって思う。床の重苦しい焦げ茶色も素敵な色に思える。

机の上を片付けたり、本を元に戻したりしている光彦の後ろ姿を目で追いながら、わたしは、いつも優しい光彦の何もかもが大好きだったけれど、形の良いまあるい頭に、飛び跳ねているような自然なウエーブがあることや、その短い髪の裾が美しく整って絡む長い項を、いつも綺麗だと思って見ていた。

部屋の隅の丸い明かりを少し落として、光彦は、鮮やかなレモンイエローのシーツにくるまると、『早く、おいで。寒いよー』と、呼ぶので、わたしも横に飛び込むみたいに入って、光彦の胸に頭をくっつけた。光彦は、以前のように、わたしが寒くないようにと肩を押さえると、わたしの頭を少し離して、涼しい切れ長の目をまあるく見開いて、じっと見る。

わたしの頬に、乾いた指先が、やさしく触れるのは、お兄さまの当たり前の仕草なの?それとも、お兄さまの特別な仕草なの?わたしの目を、真っ直ぐ、穏かな目がじっと見るのは、お兄さまの当たり前の温かさなの?それとも、お兄さまの特別な温かさなの?

太陽と砂の大地を移動した民の名残りみたいに、たくさん重なってやさしい睫毛。形良くふくらんでいる小鼻が健康そうで好き。固く引き締まった唇を、左右に大きく引き裂いて笑う口元に、白い歯が小さいバリケードのように並んで、とんがったオトガイも余計にとんがって美しい。

耳の下の角張っている顎の形も好き。お友だちは、お兄さまを、かわいい、なんて言うの。でも、わたしは、とても男らしいと思うわ。見つめるわたしに、笑顔の光彦は『来ないかなって、呼んでたの、聞こえた?』と、言っている。

降り出した雨の音を聞きながら、わたしは、頬に触れている、その手のひらの端でいいから、唇にも触れてほしいと思った。光彦は、ふと手を伸ばして、目覚し時計を取ると、午前八時に合わせた。光彦は、目覚まし時計なしで、いつも起きることが出来たし、休日でも、八時なんていう時間まで眠っていたことなんてなかったのだけど、やはり、気にしていた。午前八時は、お母さまが工場で仕事を終える時間だ。

光彦が、わたしの頭の向こうの時計を触っている間、わたしは、少し息をつめて、わたしの胸に重なるように広がる光彦の胸と、喉の形を見ていた。

もし、この時、わたしが、それ以前に、誰かを恋しく思うことを知っているのだったら・・・、不可解な沈黙を、不可解とも思わず傍に居続けたり、いつもいつも、姿を追って、じっと見つめずにはいられなかったりする、そのことが、恋だと、すぐに理解できる経験が、もし既にあったとしたら、わたしは、きっと、涙が出たと思う。

わたしは、きっと、泣いて、その笑顔の頬に触れたいと、自分から、光彦に手を伸ばしていたと思う。けれど、あまりにも惹かれすぎている、それが何なのか、ただ、やさしすぎること、幸せすぎることと思うばかりで、まだ、知らなかった。

その夜から、わたしは、また、光彦の傍で眠るようになった。光彦の方からは誘ってくれなかったけれど、わたしが行くといつも入れてくれた。

寒がりの子猫のように、くっついて眠った。何もかも安心しきって、幸せな夜。光彦のやさしい手が、わたしの髪を撫でてくれる。髪に触れた光彦の手が止まると、わたしは、頭で少し、光彦の体を押してみる。光彦はまどろみながら、わたしが早く眠るようにと、もう一度、わたしの髪を長い指先ですくった。

あまりにも、わたしは、光彦と一緒に居過ぎだったのだ。まだ、十六歳なのに、光彦がどうしてセイキ雇用?を選び、働こうとするのかしら。光彦が、どうして、わたしを残して、Q市になんか行ってしまえるのか、分からなかった。

あの、お母さまとわたしを二人きりにするなんて。何か嫌なことが起こりそうで恐い。恐い気がして嫌だからと、光彦に訴えても、お母さま思いの光彦は、むしろ、わたしを軽く睨んで、『はぎ香はもう少し優しい子だと思ったのに』と、たしなめて言う。光彦に嫌われたくなくて、わたしは、もう何も言えず、荷造りをしている光彦の広い背中にもたれていた。

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第二章 禁断・はぎ香 <3>

お母さまは、昔、結婚してすぐの頃はフルサトの共同統治で、小さな子どもたちに絵を教えていた人らしかったけれど、わたしの知っているお母さまは、今の仕事に就く前は、ただ家にいるだけの人で、何か放心することが多くて、家の用事さえもままならないような、何でもひどくゆっくりとしか出来ない、だらしのない感じの人だった。

その頃のわたしは、もう五歳になっていたとはいえ、お母さまに何かを手伝ってもらったり、特別に構ってもらったりということが、まるっきり無くなってしまった。保育園には、送り迎えが必要だったけれど、光彦がそれをしてくれていた。

いくら、担任の先生からお母さまに連絡があっても、お母さまは、だめだった。家にまで訪ねてくださる先生にも、まずは、会うこと自体を嫌がり、そしてまた、会うには会っても、カミツクヨウニ言ったかと思うと泣きじゃくる、という取り留めの無さで、ウン、ウンと、お母さまの繰言を熱心そうに聴くふりをする、若くはないけれど潔癖そうな先生の横顔は、しかし、自分とは一生、縁もユカリもない人間の話を聞くかのように、又は、絵に描いたようなバカな親を見るかのように退屈しきっていて、最後には軽侮を隠そうともせず帰って行く。

当然の事のように、わたしの保育園生活は悲しいことが多かった。子どもたちのほとんどが、先生の態度を敏感に捉えて、先生の見ていないところでは、一層の横着さと狡猾さを露わにして、わたしを取り巻いた。そんな対立が何処から生まれてくるのか、丸顔で愛くるしい顔立ちでもある先生は、本当に気付かない愚鈍さなのだ。

わたしは、周囲の子どもたちの、卑劣に投げかける言葉に驚き、言葉を失い、その代わりのようにガツンと左手が出てしまう。叱られるのは、勿論、わたし。先生は、理由を聞いてくださることは一度もなくて、言葉が少なかったわたしは、ただただ、咎められ、嫌われていた。わたしに子どもが出来たら、きちんと話せる子どもにしたいって、今は思う。嘘つきの子どもにも負けないくらいに。

「お母さまが、ボンヤリして考えられなくなってしまうのは、病気のせいなんだよ」

「嘘よ。熱はないって言ってたわ」

「熱のあまり出ない病気ほど、気を付けて大事にしないといけないんだ。お母さまが、きちんとお薬飲むの知ってるだろう?」

「・・・この前、捨ててた・・・」

「・・・・・」

「アイスクリーム!食べる!」

わたしは、真冬でも、光彦にアイスを買ってとねだった。わたしは、光彦の前では、おしゃべりで、わがままで、甘えん坊の女の子に変身していた。わたしは、泣き虫ではなかったけれど、迎えに来てくれた光彦のやさしい笑顔を見て、何度も泣きそうになる。でも、心配かけたくない気持ちから、泣かなかった。それに、光彦の笑顔を見ると、わたしは、イヤな一日を全部忘れて、別の世界へ帰って行けるの。

光彦は、遠回りした公園の赤い屋根のお店の前で、少し考える。そして、

「金曜日だから!買ってあげよう!」

「アイスクリーム!食べる!」

「月曜日だから!食べよう!」

光彦の貯めていたお小遣いが、わたしのアイスクリーム代に消えているなんて、気が付かなくて、光彦は、お母さまからひどく問い詰められて、『ごめんなさい』と謝っていた。

「はぎ香が、ご飯、食べなくなっちゃうでしょ?だから、だめ。これからは、土曜日に買ってあげますから。我慢して」

わたしは、光彦のために、アイスクリームを我慢して、公園のブランコも我慢して、夕ご飯を一生懸命に食べる。光彦は、わたしに対してだけでなく、お母さまにもやさしいから。

わたしも、時々は、お母さまに甘えたくなって近づくけれど、お母さまの笑顔は初めだけで、だんだん、不機嫌をこらえていくような感じになって、しまいには、光彦に、わたしを見てほしいと頼むの。わたしは、どうして嫌われたのだろうと、分からず、悲しくなる。

誰にも涙を見られたくないわたしは、お風呂で、一人身体を洗いながら、そこで泣くことを覚えた。埃だらけだからと、先に済ませる光彦だけど、わたしが上がるのを、いつも居間でピアノの練習をしながら、待っていてくれる。わたしが乾いたタオルを持って行くと、光彦は、それでもう一度、わたしの髪のしずくを拭き取って、『あとで、本を読んであげるよ』と言ってくれる。

手早くて、慣れた手つきでドライヤーもかけてくれる光彦の、サラサラと髪に触れる指先が気持ちいい。『女の子らしくて、素敵な髪だね・・・』と、いつも言ってくれた。

わたしは、お母さまがそんな風になる前からも、そして、このD村に引っ越して初等校に入学してからも、夜は、光彦の傍で眠ると言い通してキカナイ子どもだった。いつもいつも、光彦の傍にいたかった。

眠る前に、光彦は胡座を組んだ足の上に、わたしの身体を包むように乗せて、わたしの膝の上に広げたお話の本を覗き込んで、やさしいきれいな声で読んでくれる。ほとんど、毎晩、そうして後ろから抱くようにしてくれる光彦が大好きで、片時も離れていたくなかった。人が背後にいることは、すごく嫌いなわたしだったけれど、光彦は特別だった。今も、目を閉じると、頭の良くなるオマジナイと言って、光彦が焚いていたレモングラスの香りが甦って、わたしの身体を包んでくれる。

光彦が予選校に進むのと同時に、わたしとは別な部屋を、お母さまが用意して、光彦は階下に行ってしまった。そして、いつの間にか、髪を乾かせてもらうことも、お話の本を読んでもらうこともなくなった。わたしは、だから、余計に光彦の傍に行きたくて行きたくて。兎に角、傍にいたい。夜も、まだ、傍で眠りたいのだ。けれど、光彦は、その部屋には一度も呼んでくれなくて、わたしは、寂しいのを我慢していた。

その頃、お母さまも漸く、回復の兆しが見えて、わたしも九歳になって、とてもしっかりしてきたからと言って、西のM市まで出て、夜のプラスチック工場で働き始めた。午後七時に家を出て、午前九時に帰って来る。過酷に思える、そんな地味な仕事をする人たちもいて、世の中は成り立っていると、光彦に教えてもらったから、分かっているつもりだけれど、何か、わたしには、お母さまが、わざと、長く家を空けていられる仕事を選んでいる気がするの。

「夜の仕事だから、お金にもなるし、プラスチックは静かな手作業だから、今のお母さまのためにも合っている、ちょうど良い仕事なんだよ」

と、光彦は言っていた。でも、わたしの知っているお母さまは、いつも、ヴァンパイアのように眠っていたし、光彦も、昼間はもう、わたしなんて忘れてしまったみたいに、プラザで知り合った青樹や雅彦と一緒にいることが多かった。

わたしも、友だちと一緒に、プラザにいたり、公園にいたりする光彦の後を追っている日もあったけれど、光彦たちには近づかなかった。光彦の傍には行きたかったけれど、まるで、光彦の周りを恋びとを奪い合うみたいに代わる代わる取り巻く、青樹や雅彦のような、年の離れた男の子たちに近づくのはイヤだった。

そんな日々が一年余り続いて、わたしは、すっかり取り残された気持ちになっていたけれど、やがて、光彦が一層サッカーに夢中になった頃、雅彦はM市にある体育系予選校へ転校し、青樹も、専攻を彫刻から建築へと切り替えて熱心になったとかで、もう、だんだんと、世界が違ってしまったらしかった。

お母さまが出かけるようになって、初めは淋しかったわたしも、夜は光彦と二人きりだと気がついて、なんとなく、嬉しい。部屋の扉をノックすれば、もしかして、入れてくれるかもしれない・・・。けれど、光彦は、予選校に入ってからは、午後八時から十時までは必ず勉強するようにしていたので、わたしもその間は、友だちに短い手紙を手書きしていたり、一日の一番最後の時間にあるクリアテスト、その間違い直し、それが宿題だったので、それをしていたり、ないときには、裁縫道具を広げて遊んでいたりする。

お母さまは、光彦には本を、わたしには布地をよく買わせてくれる。わたしは、他のどんな色よりも、萩の花の淡く鮮やかな赤紫の色が気に入っていて、ちょうど、そんな色の木綿を見つけて、たくさん買った。わたしは、それで、肩には細い紐だけの、胸にはたくさんのギャザーを寄せて縫い取りをした部屋着を作り始めていた。

保育園の頃から、針を持つことには慣れていたし、始末よく縫うことは、お母さまより得意かもしれなかった。わたしは、いつのまにか、それを着て、光彦に見てもらいたいと、そんな風にばかり考えて熱中した。

三日目の夜、とうとう、それを仕上げたわたしは、着替えて、胸の下のギャザーを確かめて、二階の廊下の大きな鏡に映してみた。背が高くなって女らしくなったように見えて、自分でもドキッとする。肩を長い髪で少し隠した。そして、急いで、でも、音は立てないように、気を付けて階段を降り、すぐ左手にある、光彦の部屋の分厚い扉をノックした。

十一時を少し過ぎかけていたけれど、光彦はまだ起きていて、『なあに?』と、すぐに扉を開けてくれた。十歳のわたしは、まだ小さかったけれど、十四歳の光彦は、普段、着痩せして見えるだけで、本当は肩も広くて、手も足も逞しくて、それに、この古い家の鴨居は、光彦には低すぎると思うくらい、もう背も高かった。

いつか、一度だけ、この部屋に入りたくて、光彦の後を追った時、どうしても、だめと、押し返されて入れてもらえなかった。

「なあに?どうかした?」

勉強の時にだけかけている眼鏡をはずして、戸口に寄りかかった光彦は、久し振りでわたしを見るみたいに、じっと見おろしている。わたしは、光彦の、クリーム色のシルクのシャツと、裾までゆったりとしている同じシルクの長いパンツを見ていた。

「綺麗だね。この色」

わたしの萩の色に目を留めて言ってくれた光彦を、わたしはじっと見上げた。そんな、わたしを、光彦もじっと見たけれど、すぐに、やさしい笑顔になって、

「おいで・・」

と言って肩を抱いてくれて、あっという間に、わたしは、来たくて来たくてたまらなかった部屋の真ん中にいた。でも、少し寒い。この頃は、冷房が効き過ぎる。

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第二章 禁断・はぎ香 <2>

お兄さまは、学校のスポーツでは、お母さまに勧められてスケートを選んでいたけれど、どうしてもって、お母さまに頼んで、南のQ市のサッカー少年団にも入っていた。十一歳から十四歳まで、たった三年余りの短い期間だったけれど、その間、お兄さまはトップの位置を誰にも譲らず続けて、弱かったチームはQ市の三強と言われるほどの強いチームになっていた。

細っそりとしていて、優しくて、わたしから見ると、とっても穏かな雰囲気のお兄さまの、どこにそんな激しさがあるのか、分からなかったけれど、得点力で誰にも負けないという攻撃的で勝ち気なところがあるらしかった。三年間、日曜毎に試合のある生活だったけれど、集団競技を嫌うお母さまの心配をよそに、お兄さまの目は、まるでプロの一流選手のように、または自分と闘い続ける個人競技の選手のように、涼しく澄んだ目のままだった。

でも、お兄さまは、十五歳になってすぐの頃、あんなに好きだったサッカーを辞めて、同じQ市にある通信社で、土日だけのアルバイトをするようになった。技芸術予選校三年目だった。予選校で、お兄さまはピアノと声楽を専攻していたけれど、それも、四年目に入る前に終了届けを出してしまって、二年目になるその通信社で、今度は正社員になって本格的に働き始めた。

交代勤務の仕事だったので、D村の家からは離れて、通信社の寮で一人暮らしを始めてしまった。そして、やはりQ市の語学系予選校の夜の部に二年間通って、日本語教師の資格を取り、通信社が設けた教室で、新しく渡来した人たちに教えることもしていた。日本語には世界に共通するヴェガの古語が多く残っていると、お兄さまは以前から、そんな関心の持ち方をしていたので、特別に頑張るということもなく、生活の一部にしてしまっている。忙しいのが大好きなの。

わたしたちは、イマキという姓が示す通り、父方のルーツは西の大陸の高地にあって、四代前、この島に移り住んで帰化し、イマキという姓を名乗るようになった。知らない人は、お母さまも、その顔立ちからイマキの人と思う人が多かったけれど、お母さまは、旧姓をマヤノといって、生粋の、この島の先住民?と言っていいくらい、古くからR県の北東部に住む一族の出なんだそうだ。

お兄さまが働き出したのだから、お母さまは夜の仕事を辞めるかしらと思っていたけれど、まだ続けている。この頃のお母さまは、益々、わたしを見なくなった、という気がする。夕方、出かける時とか、声だけはやさしく、誰も訪ねて来る予定はないから、誰が、どんな人が来ても、絶対にドアを開けてはだめと、子ヤギのママのように念を押して出かける。毎日、しつこくて、正しいけれど、うんざりする。それに、わたしの顔を見て笑顔になることなんて忘れてしまっている。

もう長い間、わたしは、お母さまの疲れた横顔しか見ていない。お兄さまと、そんなにも、人が言うほど似てはいない。以前は、少し年の離れた姉弟のように見る人もいたけれど、この頃では、そんなこともなくなった。確かに、笑わない分だけ、シワは同じ年の人より少なかったけれど、シミやそばかすは同じ年の人より多いと思う。

お母さまが夜に働くことを辞めないのは、わたしを避けていたいからかもしれない。わたしは、もう気がついたときには、嫌われている気がして、わたしも、お母さまが嫌いだった。わたしは、何かあると、お兄さまの後ろに逃げ込んで、お母さまの言うことは何もキカナイ子どもだった。何故だろう。

もう今は、わたしたちとはすっかり生活を別にしているお父さま。お父さまにサンザンぶたれて顔を腫らしたお母さまの、不様で醜い姿を情けなさと嫌悪の入り混じった気持ちで見ていた日々。お母さまには、他に忘れられない人があって、お父さまは悲しくてお母さまをぶった。それまでは、美しいと思ったお母さまを、冷たくて醜い人、見ていたくない人、と思う気持ちが、お母さまを疎ましく思う気持ちとスリカワッタのかもしれない。

そんな、わたしには、お兄さまだけが、頼れる暖かい陽の光りのような存在だった。わたしにとって、光彦は、兄というだけではなく、父であり、母でさえあった。

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第二章 禁断・はぎ香 <1>

かわいそうな事件だなと、イケナイことだけど、ナントナク、そう思っていた。逮捕された男の人は二十歳。十四歳の女の子は保護されて、女の子の胎内には、その男の人との赤ちゃんがいたのだけど、ショックで、結局、流産してしまった・・・先月、事件として報道されたのは、そこまでだった。

二人が知り合ったのは四年前。その男の人は父親と二人暮らしだったけれど、十六歳になってすぐの頃、父親を仕事中の事故で亡くしたあとは、身寄りもなく独りで働き、暮らしを立てていた。彼は、休みの日、前に仕事で行ったことのある町に、ふと、もう一度行ってみる気になって、四百ccで出かけた。

何故、その町へ行きたくなったのか、わからない、平凡な田舎町。散歩の小犬たちが少し嬉しそうな小さな公園。どこにでもある町の、どこにでもある公園の陽だまりで、一人の女の子を見た。女の子のそばにいる、キカン気そうな目をした白いプードルが、不思議と彼にも懐いて。

「かわいいね。なんて名前?」

「まりちゃん!」

あとで、その女の子は、少しの間、そのプードルの相手をしていただけで、近所の家の飼い犬だと分かったけれど、何でもないその会話が、二人の生活の始まりになったの。

夕暮れが近づいて、帰ろうとする男の人の傍を、女の子は離れたがらなかったのだと言う、男の人の話は、誰にも信じられていない。そして、その人は、その女の子をバイクの後ろに乗せて、とうとう、自分のマンションまで連れ帰ってしまった。

イケナイことだとは感じていたけれど、それを誘拐?だとは思ってもみなかったそうだ。そして、幸か不幸か、大都会の、住人の入れ替わりの激しいマンションに住む二人は、他人に知られることもなく、兄妹のように暮らし、(実際、彼女の姿を見かけた人もあったのだけど、兄妹だとしか思わなかったそうだ。)そして、恋びとのように暮らし、そして、夫婦のように暮らして、女の子の身体に変化が訪れて、病院で診察を受けたことから、人に知られて、事件として扱われて。

それが、先月、報道された、少し変わった拉致監禁?事件のあらましだったけれど。一昨日、その男の人が、マンションのその部屋で遺体となって発見された。外傷は何もなく、自然死のような、衰弱による死だった。そして、昨日、女の子の方も後を追うように死んでしまった。やはり、自殺に近い、衰弱による死だった。

一層、哀しいのは、二人が本当の兄妹だったという事実。なんて酷い巡りあわせなのと思って、わたしは凍りつく。これで良かったと言えるはずもない、二人の不幸せ。

男の人が五歳の時、両親は離婚して、その時、母親のお腹にいた女の子は、父を知らず、兄がいたことも知らされず、母親と二人暮らしだった。話したがらない母を想って、父親のことは何も聞かず、寂しい気持ちで暮らしている女の子だったから、ふと、他人ではないような気がしたその人に懐いて、もう家には帰りたがらなかったそうだ。

ところが、事件になって、母親と再会して、母親は、彼に会い、名前を知って、それから、こんな悲しい結末を迎えてしまった。誰が悪いとも言えない哀しさ。何がイケナイのかしらと、天に問い掛けてみたくなる哀しさ。

二人の子どもに再会したのも束の間、相次いで亡くしてしまった母親に、世間?の同情は寄せられているけれど、わたしは、やはり、この女の子を、この兄妹を、かわいそうだと思わずにはいられない。

わたしとお兄さまとは、今まで一緒に離れず暮らせたのだから、わたしは、幸せだと思わなくてはイケナイのかもしれない。でも、どうかすると、わたしは、この女の子を、その生活を、その妊娠を、そして、その死さえも、羨ましいと感じていることに気がつく。わたしも、公園でお兄さまに出会ったら、きっと、もう、家には帰らないで、後をついて行くと思うから。

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第一章  初恋・青樹 <完>

「青樹、誰よりもお前がかわいくて、誰よりもお前が大事なんだよ。他の男になんか」

”渡さない”『父さん』”俺のものだね”『父さん』”俺のものだよ”

「青樹、僕を信じて、青樹、青樹・・・」

愛していることを伝えきれないみたいに、もどかしいように、父さんは、俺の名を呼び続けて俺を抱いた。そして、その瞬間が過ぎ去ったあとは、俺の体に思い切り体重をかけて笑う。『苦しい』と言う俺に『苦しいのは僕。お前がこんなに悪い子だなんて。身が持たない」と笑う。『でも、うれしい?』と聞く俺に『でも、嬉しい・・・』と、今度は真顔で、あの目の色で応えてくれるのだった。

けれど、父さんを見送ったあとは、たちまち、空しい。

心配してKが訪ねて来てくれたほど、俺は学校へ出ていなかった。Kを居間に招き入れて俺はKの傍に座り、『抱いて・・』と言っていた。Kは笑っていた。俺の肩を抱き寄せて、『お前にそんな風に言われると、何だか、俺、アブナイ気持ちになっちゃうよ。』と、笑っていた。

「いい匂いだね、青樹。きれいにしているから、病気ではないんだね。安心したよ」

そんなKの声を聴きながら、好きなだけKの胸にもたれて過ごした。白いバスローブの下の、何も着けない体が疼いている。

一日中、裸の体を父さんのベッドの白いシーツに、コスリツケルヨウニシテ過ごし、苦しくなる度にバスタブに体を浸けて、気持ちを洗うように体を洗う、その繰り返しで何日も過ごしていたが、買い物に付き合ってくれと言うKと久し振りに外へ出た。

「舞台芸術のあの子に、お前が手を出したって、噂になってるよ。まさか、青樹、振られた?」

「・・・。ね、俺、終了届を出そうと思うんだ。それでね、あの綺麗な傘、俺にくれないか?」

「傘だったら・・、新しいのを俺がプレゼントするよ。あれ、少し古くなってきたから」

「いや、新しいのを、俺がプレゼントするから」

その夜、Kから譲り受けたあの花模様の傘を抱いて、あの日以来、初めて自分のベッドへ戻って眠った。もう、俺の”ソーラー・ファーネス”の相手は、最後の最後で、どうしても、はぎ香になってしまう。

あの日を、俺の中から消すことができなかった。もう一度はぎ香を欲しいのであれば、今度こそ、力づくで奪うしかなさそうだけど、できることではない。

あの時だって、力づくというより、俺は、はぎ香への愛しい気持ちに正直だっただけ。ただ、はぎ香がバージンだったこと。そして、俺も、何も分かっていない男だったこと。それなのに、熱に浮かされたまま行動してしまったこと。それだけのことなのだけど、俺たちの関係は、傷つけたものと、傷ついたものとで終わろうとしている・・・。いや、もう、終わったのだ。俺にだけ、愛し合ったという記憶をいつまでも残して。

はぎ香は、俺を葬り去ったと感じる。俺の淋しさなんて考えもしないのだろう。背筋を伸ばして真っ直ぐに前を向く姿。明るい笑顔。傍にいる俺に気が付きもしない美しい横顔。いつか、今すぐには無理だけど、いつかは忘れることができるだろうと考えて、俺は、冷たく通り過ぎた横顔さえ、毎日のように思い出してしまう。そして、いつかは忘れるのだからと、そんな自分を許している。

あの日を消そうという努力もしない。むしろ、その記憶を何度も辿って、はぎ香の涙に口づけた時の幸福感を、自分の中で呼び覚ましてしまう。俺の胸で泣いたのは、はぎ香だけだった。どうして、泣いたのだろう。初めての時も泣かなかったのに、どうして、泣いたのだろうとばかり考えて、泣いているのは、なんだ、俺じゃないかと自嘲する。醜く、卑しく、父さんを求めてしまう自分に泣き、そして、遠くなるばかりのはぎ香を思い切れずに泣く。そんなことを繰り返すオゾマシサに気が変になりそうになる。

一生、父さんの傍で暮らしたいと思ったのは少年の日の自分であって、今の自分ではないのだから、やはり、父さんとのことは清算するべきだと決心し、しかし、拒もうとすると、たちまち、幸せそうだった父さんの目は憂いを含んで、『どうしても、僕が信じられない?』と、淋しげにするのを、俺は、慰めるように受け容れて、また、気持ちが乱れてしまう。

そんな俺を見かねたように、父さんは打ち明けた。R県の男よりも、どうして、俺が大事なのか、どうして、こんなにも離れ難く、愛しく思えるのか、その訳を俺に伝えて、父さんの心をを疑う俺の気持ちを、少しでも晴らしたいと考えてのことだった。

俺は、本当は父さんの子ではなく、父さんの初恋の人の子どもなのだと、父さんは言った。もう、この世にはいない、けれど、今も忘れ難いその人の名は、”みづほ”と。それが、俺の本当の父親の名だと知らされた。俺は思わず、『いやだ!父さん・・いやだ!』と叫んでいた。辛い気持ちが溢れた。裏切られたと思う寂しさが押し寄せた。

「父さん、俺たちは、俺たちは親子だから、親子だから、こうなった、そうじゃないのか、父さん、親子じゃないとしたら、俺たちはいったい、俺はいったい、父さんの何なんだ、父さんは男が欲しくて、男が欲しくて俺を二十年間も飼っていたのか、父さんは俺を男妾に仕立てたくて、今まで飼育してきたのか、応えて、応えろ!」

掴みかかり、組み伏せる俺を、殴りかかろうとする俺を、反射神経の良い父さんの手は遮り、素早く体を入れ替えると、爪を立てるように俺を抱きしめて、激しく俺の肩を噛んだ。今までで、いちばん強く、父さんの愛を感じた瞬間だった。

「僕を信じて。信じるんだ青樹。お前は、久美子の身体の中にいる時から、毎日、僕の声を聴いて育ったんだよ。僕は久美子を愛していた。決して、男が欲しいと思う男ではなかった。ただ、みづほさんは特別だった。久美子を愛していながら、みづほさんにもめぐり逢いを感じた。みづほさんという存在がなければ、僕は、こうはなっていなかったと思う。みづほさんだから、みづほさんとだから、僕は、こうなった。みづほさんは、それほどに、特別の人だった。わかって欲しい。男同士でも、めぐり逢うということは、あるんだよ。お前と僕も、形は親子だけど、僕はめぐり逢ったと感じているからこそ、お前を抱けるんだよ。でなければ、とてもできないことだ。愛しているのでなければ、とても、できないこと、いっぱいしただろう?ね、愛しているから、こうなったんだよ。青樹、飼育だなんて、僕たちの関係を貶めるような言葉を使うなんて、悲しいよ」

父さんのやさしい声に諭され、子どものように抱きしめられた熱い沈黙の中で、俺は、もう、寂しさを治せない。”わかったよ”と、胸でつぶやく。わかったよ、父さん。どんなに、その”みづほ”という男を愛していたか。久美子を盗られても赦したほど、愛していたんだね・・・。だけど、”みづほさん”という言葉が多すぎる・・・。密かに、はぎ香を思い出しては裏切っている俺なのに、また、父さんを責める気持ちに捉えられて行く。

人前で、一度も泣いたことのない俺が、その日、初めて、父さんの胸で泣いた。醜く、卑しい俺の心は、こんなにも愛していると言ってくれる人を、まだ、傷つけたがっている。もう、離れよう。もう、離れなければと思い、泣いた。どんなに抱きしめられても、父さんだと信じきっていたアナタに、そうではないと告げられる、その酷さを、俺はもう受け止められない。俺が、”みづほ”という男の面影を宿しているというだけの、ただの愛人にしか過ぎないなんて、今の俺には寂し過ぎるんだよ。父さん・・・。

”父さん”という名の異邦人の胸は、それでも温かだった。自分で自分の肌に触れている時のように、違和感のない皮膚の温もりに、むしろ、今まで以上の懐かしさがこみ上げて、俺は、その胸で涙を流し続け、やがて、唇にそっと触れてくる、異邦人の、女のようにやさしく柔らかな唇を割ると、貪るように舌を絡ませた。

何もかもが疼いて、俺は、褐色のその体を乱暴に愛し続け、うす目になって苦しげに俺を見る異邦人の、その美しすぎる横顔を脳裡に焼き付けようと見据えながら、夜明け前の青い闇の中に、とうとう、あの人と同じ咆哮を上げて、俺たちの終わりを告げていた。  第一章  初恋・青樹 - 完 -

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第一章  初恋・青樹 <21>

知らなければ良かったと思う程の悦楽の後で、俺の胸には、はぎ香の姿が甦り、その名前さえ口にしそうだったが、それと同時に、俺たちはこうして遠くなる・・・と、俺は、鮮明ではあるけれど小さくなるはぎ香の姿を惜しんだ。

憧れるように想い続けた父さんだったけれど、結局、あの人も、父さんも、同じことをしてくれたのだけど、あの人の時とは、あまりにも違っている気がする。男同士、愛し合ったというよりは、男に、女のように抱かれたという感じが強すぎて、しかも、その快楽の中にすっかり身を浸して漂った自分を、悲しいもののように思わないではいられなかった。

父さんの胸にうっすらと滲む汗に口づけて、受けた感動の深さを伝えながら、毎日でも愛されたいと思うのは、この新しい快楽のせいなのか、それとも、父さんを愛しているからなのかと自分に問いかけていた。

父さんとのこの行為が愛ならば、昨日の俺とはぎ香の行為も愛、いや、それ以上のものにも思える。俺に、もっと人を愛した経験があって、はぎ香も、もう少し大人に近い女であったなら、もう離さない、もう離れないと、お互いに囁きあったかもしれない・・・と、今だからこそ、はっきりと言葉にして説明できる、あの幸福感・・・。

今になって、あれは、俺だけではなく、やはり、はぎ香も感じていたのではないかと思えてくる。俺の手を強く握り返し、俺の胸に頬を寄せて、漸く泣き止んでからも俺から離れなかった、はぎ香が・・・悲しい。

君を抱き寄せて、ごめんね、と言いたかった。昨日も俺は、”人類不滅(避妊具)”を付ける機会を見失ったまま君にしてしまったから、最後は思い切るように君から離れたけれど、その時、初めて、微かな君の喘ぎを聞いた。惜しむように聞こえた、君のかわいい声。装着してから始めていれば、その瞬間をもっと君と分かち合えた。今さらもう遅い。幸せ過ぎる記憶がこんなにも辛いなんて。もう二度と聞くこともない君の声。

父さんの胸に頬を重ねたまま考え込むような俺を、父さんの腕が、やさしすぎるほどやさしく抱きしめてくれる。

「青樹、僕を信じてくれればいい。愛しているから、こうなったんだよ。愛しているから、こんなにも幸せなんだ。そうだろう?」

父さんは、今まで以上に、男らしく美しい表情で俺の目を見つめ、それから、幸せそうなその表情を失うまいと、閉じ込めるように長い睫毛を伏せた。俺の好きな父さんのかわいい顔だ、と見つめる俺に、父さんが言う。

「あとで、もう一度・・」

やさしい子どものように、素直で遠慮がちな様子を、また、かわいいと思ってしまう。

「淋しくない関係になりたいと、お前が言った、その言葉がずっと心にかかっていて。夢の中に、僕を抱きしめるお前が何度も現れて・・・」

そう告白してくれる父さんに、俺は、本当はどうだったのだろう、と。俺は、本当に、父さんに対して誠実だろうか、と良心が痛みはじめていた。俺は、父さんに甘えただけではないのか・・・と。それでも、俺は、俺を抱いて幸せそうな父さんの目をもっと見ていたくて、『父さん』と、巻き毛の艶の良い髪に手を触れた。

「父さん・・・痛くないの?」

「いいさ。お前は?」

俺は、気持ちが良かったとは言えなくて、ただ、首を振ったけれど、想いは溢れた。少年のように澄んだ目で俺を見つめる父さんを、裏切りたくない、と見つめ返さずにはいられず、最初の口づけを誘うように求めたのは俺の方だったけれど、応えてくれた父さんの、柔らかく、美しく、官能的な表情のその唇を、もう、拒むことができなかった。

はぎ香にとって、兄・光彦が運命の人なら、俺にとっては、父・満彦がその運命の人なのだと思った。

そう。確かに、父さんは運命の人だった。俺の運命は、生まれる前から、父さんの手に委ねられていたと言っていいほどの、俺たちの関係だったと、後に知らされた。

俺は、父さんが家を空ける度に、気が変になりそうな自分を見た。今までにはナイ感情。俺の”ブック”にはナカッタ感情に支配されて、R県の男に憎しみを抱いた。父さんの愛を信じていながらも、疑う言葉を投げつけては、父さんを苦しめた。

きっと、青樹だけのものだと分かるから。どう説明しても、お前は信じてくれないけれど、『僕はお前のものだから』と、父さんは言うのだった。けれど、何もない人が、父さんのために妻子と別れるなんて、『誰が信じるんだ』と、俺は繰り返してしまう。

それが本当なら本当で、悔しいほどの深い愛情が感じられる男。そんな存在は認めたくなかった。心も姿も、汚れて醜く、人間としてもワイショウな俗人物であってほしかった。

その男が美しいかどうか、父さんは一切、答えなかったけれど、もう、五十歳に近い年齢の人だとだけは言ったので、俺はまた、今まで俺の中にナカッタ感情に浸る。五十に近い男が美しいはずがない。俺の方がずっと美しいはずだ。だから、父さんも俺を抱いたんだ、と。しかし、醜い感情は、どこまでも醜いばかりで慰めにさえならない。

俺は、仕事の都合で、どうしても今日中にR県へ発つという父さんを部屋に閉じ込めて、抱きしめて、どうしても今日、出掛けるのならと、俺は、Kの名を持ち出してまで父さんを引き止めた。

それでも聞き入れられそうにないと思うと、俺は、着ているものを全部脱ぎ捨てて、父さんが、『しなやかで美しい』と、俺の耳元で囁いて、その唇で愛してくれた全身を見せつけるように、陽の当たるベッドの上に投げ出して、肩越しに父さんを見つめて待った。

愛しているのなら、本当に愛しているのなら、俺をこんなままで置き去りにはしないだろう?抱いて。愛して。せめて、その手で俺を包んで。もう一度、長いキスをして、と俺は胸で叫んで、肩越しのまま父さんを見つめ続けていると、父さんは、哀しげに、俺の傍にひざまづき、シーツを引き上げた温かい手を俺の背中に置いた。

「青樹、お願いだ。僕を行かせて」

ああ、父さんの何て素敵な声だろう。俺は、もう、今では、父さんのその声だけで、理性もプライドも失くして目を閉じてしまう。

俺は体を返してシーツを蹴り、脚を開くと、ひざも立てて、父さんを待ち続ける。今まで、父さんに言われても、出来ないと思った形だけど、もう平気だ。父さんに愛されている俺だもの。きっと、他の男の前でだって、少しも恥ずかしくないよ。だから、今、抱いて。もっと愛して・・・もっと・・・と、俺は目を閉じて無防備なまま、『青樹・・・』、諭そうとする父さんには応えず、”抱いて・・・”と想念を送り続け、父さんは、とうとうたまりかねたように素早く服を脱ぎ捨てて、俺の胸に重なって俺を抱きしめた。

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第一章  初恋・青樹 <20>

その日の夜は、たとえ、はぎ香を帰してしまったとしても、、二人で過ごした一日を、一分一秒を、あの甘い気持ちのまま思い出しながら、幸せな眠りにつく夜になるはずだった。しかし、坂道を駆け下りて一度も振り返らない、はぎ香の別れ方は、たちまち俺を空しくした。

俺は、二人で抱き合っていたシーツに残る細かなシワさえ見ていられなくて、汚れてもいないのに、すぐに外して洗濯機にかけた。裏庭に出て、それを干した後は、ぼんやりとした気持ちで、花や木に水を撒き散らしながら、いつのまにか自分が泣いていることに気がついた。愛されていないと認めることは辛いことだった。けれど、愛されていると思えるのなら、こんな暗い気持ちにはならないはずだ。

今夜こそは、俺の方がKに一緒に寝てくれと頼みたい気持ちだったが、こんなに明るい素晴らしい日に、Kが部屋の中になど居るはずもない。万が一いたとして、彼は、また、新しい彼女に夢中だろうし、もう、今の俺には、三人で眠るなんて出来そうにない。

俺の背中に、時々、体をぶつけながら、Kは女の子と朝までかと思うほど、激しく愛し合う。相手の女の子も、聞いてほしいのだろうと思うほどの遠慮のない声。そして、二人が漸く静かになる頃、俺は、わざとKの手を握る。”今度の子も激しいね。体、大丈夫?”Kは、腕にしっかりと女の子を抱いて、満足そうなやさしい目になって握り返してくる。”貸してあげたいくらい素敵だ!”そんなことが楽しかった。だけど、もう、だめだ。

ふと気がつくと、父さんの車が、音もなく滑るように、坂道からその車体を現わして戻った。ああ、あと三十分、いや、二十分、はぎ香を引き止め、父さんに紹介し、三人で楽しく食事でもしていれば、俺たちは、もう少し違った別れ方をしたのではないだろうか、と未練がましく考え続けた。

父さんは、新鮮な玉蜀黍と人参と三度豆を次々と茹でながら、その横でトマトスープを作る。オーブンで焼く肉の香ばしい匂いがキッチンを満たして、俺も横で手伝い、話かけながら、父さんの手際の良さを素敵だと思い、そして、あまり肉を食べない父さんが、俺のために焼いてくれるのを嬉しいと思いながら、食欲がない。

かといって、上に上がって休む気にもならない。帰ったばかりの父さんに悪いというだけでなく、あのベッドで眠りたくない。眠れそうにない。

かわいそうだと思い捨てなかった薔薇が失敗だった。今、目の前に、食卓の中央に小さな花弁がまとまって華やかにそこにある。『珍しいね。切り花の嫌いなお前が・・』そんな父さんの声を聞きながら、見つめていると、また、情けないほど恋しい。

その夜、父さんと一緒にドライブに出た。西のM市を抜けて、『あ!あれは沙羅の働く工場だよ!』湾岸道路を夜を通して走り続け、”今夜、いや、沙羅のいない幾つもの夜を、はぎ香は光彦と二人きりで過ごして来たのだ”夜明け前、海沿いのモーテルに泊まった。そこはもう、E県だと分かった。モーテルは、E県に多いガッシリとした木造の渋い造りで、俺の予選校の先輩たちの実習作品の一つでもあった。

満室の表示に、一旦は諦めかけたが、一応はと、フロントに尋ねてみると、一つだけ、ちょうど空いたばかりだった。急に思い立って出掛けたのだから、車で眠るつもりでもいたけれど、運転し続けた父さんと、横でしゃべり通した俺は、その疲労感をバスルームで癒せると喜んだ。

外観と同じ、落ち着いた、清潔な部屋だった。四人用のその部屋の二つのWベッドを前にして、父さんと俺は、当たり前のように一つのベッドを使った。意識して、いつもよりずっと丁寧に体を洗った時から、亮かに、俺には下心があった。

「急に黙って、どうしたんだ、青樹・・・もう、眠ったのか」

「いや・・」

「二歳にもならないお前の瞳に、久美子の後ろ姿が焼き付いていたのだろうか・・・。同じクラスの女の子?」

「いいんだ。もう、終わった子だから」

それが、普通の父と子としての、二人の最後の会話だった。

父さんは、ゆっくりと、俺の唇から離した唇で、なだめるように、俺の頬に父親らしく触れて背を向けたが、俺は、父さんが向こうのベッドに行かないようにと、父さんの背中に頭を寄せて後ろから抱きしめた。父さんが動かなくなっても、さらに強く、抱いて欲しくて抱きしめていた。それ以上は、どうすれば父さんに受け容れてもらえるのか分からないまま、抱いた左手に父さんの胸の鼓動を感じていた。

父さんは、拒んだのではなく、戸惑っているのだと、俺は、父さんが動いてくれるのを待ちながら、眠りに落ちて行きそうだと思った時、俺の左手に父さんの左手が重なって、父さんは俺の方へ寝返りを打ち、見つめ合った父さんと俺は、まるで、そうなることが運命のように、自然に抱き合った。

父さんと俺と、もう、体格に差はなく、見つめ合い、抱きあうのは、確かに大人の男と男に違いなかったけれど、しかし、俺にとっては、やはり、父さんは、今も、力強く美しい存在だった。父さんに、日に何度も深々と抱きしめられる安心の中で育ってきた俺。

カーテンを引いたままの薄闇の中で、父さんに見つめられる俺は、少年の日に還って父さんに身を委ね、父さんの愛を、いちばん大切なのは青樹だと言ってくれた、その言葉に違(たが)わないやさしさを、”とうとう・・ああ、現実になった・・”体中に感じて、”ソーラー・ファーネス”見失ってもいいと、自分で自分に囁いたほど抵抗をなくした。

唇の中に残る父さんの舌先の記憶が生々しいまま、父さんは、あの人のしなかったことをしかけてくる。知らなかった、どうして、そんなにまで、と思うほどのことを次々にしかけてきて、俺を離さないと言っているようだ。

父さん、待って。父さん、出来ない、父さん・・・俺がいけなかった・・・と、言おうとしているのに、俺は、声が乾いて、『父さん、父さん・・・』としか言葉にならない。

「青樹・・眠っても構わない・・・力を抜いて・・・」

そして、だんだんと、深く激しくなる父さんの情熱に翻弄された俺の体には、男である部分が侵蝕されて行くかのような弛緩が広がり、それなのに、いや、それ故なのか、もう抑えきれない未知の快感が拡がって行く。

父さんに抱きしめられ、声も出ないほどに満たされて行く静寂の中で、気が遠くなると感じた時、『アァ・・』と、『アァ・・青樹』と、俺の名を呼ぶ父さんの、いつもより、まだ低く感じるその声に、俺は、その手を強く握り返して応えるのがやっとだった。

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第一章  初恋・青樹 <19>

俺は、そんな自分に言い訳をし始める。確かに六歳近くも年下だけど、よく発達した形の良い骨格に支えられている肉体は、もう成熟していた。それに、俺は、本当言うと、プールサイドで初めてはぎ香の後ろ姿を見た時から、あの瞬間から、もう好きになっていた。

あの日から、俺は、気が付くと、いつも、いつも、はぎ香の姿を見えすぎる目で遠くまで追っていた。きれいな背中を見ていたくて。懐かしい気持ちにさせる、やさしい笑顔を見ていたくて。スクールバスの中で、俺にもたれていたのは、君ではなかったのかと、どんなにガッカリしたことか。そして、やはり、君だったと分かった時、どんなに嬉しかったか。

「アイスクリーム、好き?」

はぎ香はコクリと頷く。かわいい。やっぱり、まだ子どもかな。

「僕のことは?」

はぎ香は、少し唇をとがらせ、ためらわず首を振った。そんなにすぐに首を振らなくてもと思うと、俺は、かえって、解き放たれたような明るい気持ちになった。俺を嫌いだと言っているはぎ香なのに、また、かわいいと思って、俺は腕をまわして抱き寄せた。

『いや・・・』と、まだ言うのさえ、かわいい。今さらと、からかってみたいほどの小さな抵抗を抱きしめる。薔薇ではない甘い香り。はぎ香が帰った後も、この部屋にしばらく残っていた、強く甘く澄んだ香り。薔薇よりも惹かれるこの香り。逢いたかった、と言葉にならず、ただ胸が詰まった。

このまま、ずっと、何日も、君と過ごせたら・・・。何事にも淡白なはずの俺が、強い気持ちになって行くのを感じながら、彼女がおびえないようにと、この前の時よりも、もっと軽く、まるで初めてするような気持ちになって、そっと、唇に触れた。

どうして、こんなに、心が美しく騒ぐのだろう。今まで、女たちとしていたキスは何だったのだろう。俺は、はぎ香といると、何もかもが初めてのように思える。そして、初めてのようでありながら、初めてではないような懐かしさ。胸の震えが気持ち良くて、俺は、長く静かなキスを繰り返していた。

俺は・・・、君と俺は・・・似ている気がする。俺は、女は選ばないなどと言いながら、やはり、選んでいた。できるだけ、自分にはないものを持っていそうな人を捜しては、視線を重ねて誘ってきた。違うと感じれば感じるほど、一夜限りとはいえ激しく抱いた。だから、まさかね、君にこんなに惹かれるなんて意外なんだ。

似ていると思える人を胸に抱くことが、こんなにも幸せだなんて、今まで想像もしなかった。そういう神経って、近親相姦と同じくらいオゾマシイもの、と思っていたから。でも、考えてみれば、自分と違う人を捜すことは簡単なことなのかもしれないね。そして、むしろ、自分と似ている人に出会うことの方がむつかしいのかもしれない。

そうだよね。この世に二人と同じ人間はいないのだもの。ああ、そう考えると、君と俺の出会いは、やはり、運命と呼んでいいのかもしれない。君といることの、この安らぎ。しかも、それだけに止まらず、新しいエネルギーさえ湧き上がる。望みが何でも叶いそうな気がして、創造への爆発だって起きそうな予感さえ生まれてくる。

はぎ香。永遠という言葉も、とても身近なものに感じる。こんな風に、君をそっと抱いたまま、唇だけで満足している自分が愛惜しくて・・・。そんな波が押し寄せるたびに、ふと、大人しすぎるはぎ香が頼りなくて抱きしめる。そして、その身体の温かさに安心を取り戻しながら、目を閉じて想う。

俺たちの傍を、静かに流れる時間。辺りいっぱいの陽の光りを遠くに感じながら、透き通る青い水底にたゆたっている・・・、この感じは、初等園の頃、流行っていた脳死体験に似ていて、不思議な感覚の中を泳いで、体がしびれてくる。唇を離しても、感覚的にはまだ触れ合っている・・・。深く、全ての部分で、深く、触れ合っている・・・。

そんなふうに過ごす中で、先に動いたのは、はぎ香の方だった。水底から一息に水面へ。目を開けると、君の髪がキラキラ光って、俺は、呼びかけるかわりに手を触れた。何もしたくないと言えば、それは嘘になるけれど。でも、まるで、溶け合っているみたいに、それ以上に感じている俺から離れて、はぎ香は、シャツのボタンを外しはじめた。

本当にいいの?もう恐くない?本当は俺を好きになった?でも、俺は、こうして、ずっと、唇を触れ合っているだけでもいいんだよ。ただもう、君の温かい身体を抱き寄せて、何時間でも、何日でも、片時も離れずにいたい。それだけでいいんだよ。

「はぎ香。この前は、無理にしてしまって。君がイヤならいいんだよ。このままでも」

俺は嘘つきかもしれない。そう言いながら、気持ちが動き始めるのだから。髪に触れながら、指先が、その背中に、その素肌に、触れたいと感じ始める。

はぎ香は、目を伏せ、手を止めて無言でいた。外れたボタンの間のきれいな素肌をじっと観てしまう。『しても、いいの?』と、俺は、はぎ香に問い掛けて、自分の言葉に、先に、自分の体が反応するのを感じた。

頷いたはぎ香は、立ち上がると、きれいな腿の線を見せて、白いジーンズも脱いでしまう。知ってしまえば、男は、かえって、我慢することも覚えるけれど、知ってしまえば、女はもう、我慢できなくなると言うのは、本当なのだろうか。俺は、青いベッドカバーを外して、はぎ香を促した。

はぎ香は、ベッドの傍でシャツを取り、濃紺のレースの短い胴着と小さな下着姿になって、シーツの中に入った。はぎ香のかわいい顔を見つめていられる、あの体位は、だから、正常位というのだと、俺にも、もう分かったけれど、俺の体の両側に広がるはぎ香の脚を見るのは、まだ恥ずかしい、とか、考えてしまう。

ひざまづいて、はぎ香の身体の上にシーツを引き上げながら、俺の手は魅せられたように、はぎ香の胸の胴着に触れて、それを取ってしまった。初めて見るやさしいふくらみが、白く輝いて眩しい。

公園の暗い木の陰で、立ったまま相手の腰を後ろから抱くことが当たり前だった俺は、今、俺の大好きな空色のシーツの中にいるはぎ香を、結婚したばかりのかわいい妻のように感じて手を握ると、その日初めて、長く、俺たちの視線が重なった。

まだ少し、不安そうな少女の目。俺は、空色のシーツを胸まで引き上げて、できるだけ、やさしく言った。

「すぐ、戻るからね。少しだけ、待っていて・・・」

さっき、ほんの一瞬、頭が醒めた時、時計を見てしまった。一応、父さんに、声をかけておこうと思った。

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第一章  初恋・青樹 <18>

父さんが俺に連絡したい時に使う”ブック”の特別な番号をはぎ香にも教えていたけれど、いくら待っても何の連絡もなかった。俺も逢いたいと思いながら、何も行動せず日が経った。予選校の中で、友人たちといるはぎ香を見るには見たが、一度も目を合わせることもなく、俺も近付き難いまま、ただ、胸が痛くて淋しくなった。

あの時、恋しい人の名を呼ぶように、”おにいさま”と、悲しげに光彦を呼んだ、はぎ香のココロ。そのことが、いつも思い出された。雅彦ではなく、光彦だったと、そんな風に繰り返し思っていた。

光彦に会いたいとも思う。今はもう、南のQ市へ出て働いている光彦。しかし、会ってどうする。はぎ香へのあの行為は忌まわしくないと言い切れるのか。力づくだった。奪って得られるものではないと、分かっていたはずなのに。まさか、自分がそういう男だとは思ってもみなかった・・など、言い訳にもならない。

かわいいと思う気持ちがつのっていた・・・誰が信じる。公園で大人びた女たちを相手に、さんざん楽しんだ、楽しませた、まるで街娼のような、いや、街娼にも劣るアンドロイドのようなこの俺を。そんな俺が、選りに選って光彦の妹を・・・。何か、光彦を裏切ったような気にさえなる辛さだ。

俺は迷いながらも、はぎ香の家に電話をかけてみた。金曜日の夕方だった。かなりの緊張で待つと、静かに女性の声が聞こえたので、沙羅?と思ったが、彼女自身だった。他愛のない日常会話をする。はぎ香は少し笑いを返したりもするが、この前のように明るくないのが、俺のせいのようで、また切ない。

『明日、逢える?』俺は断りを覚悟で、思い切って言ってみた。『うん・・』と、小さく聞こえた声が空耳ではないかと思うほど嬉しくて、また胸が痛い。

『あの赤煉瓦のバンガローがある山の上の公園、君と行ってみたいな?』『M市の海岸へ行ってみる?』『じゃあ、Q市まで出て、Qシアターへ行ってみよう?久しぶりで光彦にも会いたいし・・』俺は夢中になって様々に提案したが、はぎ香の応えは全てNONだった。

『じゃあ、D村、北ブロック。広くて見晴らしの良い白い屋根裏へ来ない?』俺は本当はいちばん言いたくて、なかなか言い出せなかった場所を言ってみて、はぎ香は『いいよ』と応えたのだった。

やさしい声だったと思うと幸せな気持ちになって、俺は久しぶりでよく眠れたほどだった。夢までも、はぎ香の柔らかい声を胸に抱く夢だった。夢の中のはぎ香は、『せいじゅ、青樹、セイジュ・・』と俺の名を三度も呼んだ。探すように、確かめるように、そして、安心したように、俺の胸で俺の名前を・・・。

バスを降りたはぎ香が着ている男仕立ての水色のシャツが、白いジーンズの細い腰にたくさんのギャザーを作っている。大人びていて、それでいて、かわいい姿だと見つめた。前髪を柔らかく上げて、光の中で大きく波打つ髪から甘い香りが流れる。俺は抱きしめたい気持ちになりながら、南のQ市の方に見える、なだらかな山々を振り返る感じで見つめて歩き、その手を握った。さらっと乾いて健康そうな温かい手。

「淋しくは・・なかった?」

はぎ香は応えなかったけれど、俺の横で、彼女の身体が微かに揺らいだ気がした。俺の手の中の彼女の指先だけが、俺の心に寄りかかったみたいだった。

家に着くと、時代がかった、それでいて出すぎるほどのスピードを持つ、父さんのトルコグリーンの小型車が止まっていた。ここへ移って随分経つのに、未だにR県ナンバーのままだ。いつ帰ったのだろう?俺たちを見ただろうか?この頃は、二、三週間留守にしては、ある日突然のように帰ってくる。はぎ香を紹介して、綺麗な子だねと言わせたかったけれど、まだ時期じゃないと感じて、はぎ香は居間に待たせたままキッチンに入った。

俺のと同じ白いバスローブを羽織って、窓辺に寄りかかって立つ父さんの形の良い背中に、横から朝の光りが射して、父さんの美しい項も、項に絡んだ髪も金色に輝いて見える。

父さんは、ソーダーで割ったブルーミントを飲みながら振り返り、長い睫毛の眩しいような目で、いつになく、まじまじと俺を観る。俺はまだ、今でも、小さい頃のように、父さんの肩に寄りかかりたいような気持ちが残っている。そして、これが、父親ではなく、恋びとのように同居している男なら、そのきれいな項に口づけたいとさえ思う。

この前も、眠っている父さんに声をかけようとドアを開けた時、開け放されていた窓からの風が部屋の空気を押して一気に流れ、父さんの髪の甘い匂いが俺を包んだ。光でいっぱいの白いベッドの傍にひざまづいて、父さんに時間を告げながら、俺は父さんが欲しいと思った。白いシーツの中に起き上がった父さんの褐色の胸に、顔を埋めたいと思った。

父さんの傍に行って、『今度も長かったね』と言う俺の髪に、父さんの指先が触れた。『淋しくは・・なかった?』と、あの目で、俺を見つめてくる。俺は、父さんが淋しかったのだと、すぐに分かった。父さんが手にしている長いグラスの中の透明なストローを、俺は自分の方に傾けて、細かく泡立つブルーミントを一口、含んだ。

「友だちが、来てるんだ。この次、きちんと紹介するね」

と言う俺に、父さんは居間の方を少し気にした。俺は、お気に入りの朱塗りの盆に母さんの形見の器を並べ、二人分のアイスクリームとコーヒーを用意していたが、ストローに口をつけて、父さんがそんな俺をじっと苦笑気味に観ているのが分かって、俺もチラッと見つめ返して笑った。

俺は本当にいけない子だね。父さんの傍に眠りたいのは、まだ子どもだからなのではなく、もう子どもではないからだった。父さんの方が何か恥ずかしそうにするのを、俺は素知らぬ振りで、習慣にしか過ぎないみたいに父さんの傍に体を横たえて、そして、目を閉じて、父さんの安らいだ寝息を聞きながら、もう俺は女も何もかも知っているよと、言いたくてたまらないのだった。

でもね。俺、今夜からはもう一人で眠るよ。もうすぐ二十歳にもなるというのに、父さんの傍で眠るなんて、どうかしていた。今でも、俺の髪に触れる父さんの手が好きで、そして、言えなかったけれど、小さい頃のように、本当は眠る前のキスもまだして欲しいなんて、どうかしていた。

エディプス・コンプレックスでもなく、エレクトラ・コンプレックスでもない・・・何て言えばいいの?この、まるでプログラムされ、刷り込まれたかのようなコンプレックスは?

懐かしさでいっぱいになるという点では、はぎ香を想う気持ちにも、とても似ている。そう。俺は女の子を知った。本当に知った。死ぬまで抱きしめていたいと思うほど、好きでたまらない、とても大事な女の子なんだよ。だから、きっと、結婚もするような気がするんだ・・・。

「三時間?」

「三時間。Q市に少し用があって。一時には起きたいから。もし、音がしなかったら、声かけてくれる?」

『いいよ』と応えて、たぶん、必要ないだろうけど、と俺は思う。

父さんが帰り着いた日によくある会話だ。どんなに疲れている時でも、父さんは惰眠を嫌い、だから、目覚まし時計というものも嫌っているのだけど、そのくせ、『声かけてくれる?』と、子どものように言う。俺と一緒じゃない時は、誰に言うの?父さん?クソッ。そいつは禿げていないか。R、または、R県のY・・・と、今までだったら、そんな風に思ったけれど、もう、それもなくなるだろうと思う。

居間に戻ると、はぎ香は、もう階段の下まで行って待っていた。はぎ香、この階段からやり直そうね、と俺は胸で語りかけ、空けていた左の手ではぎ香の手を取り、上がって行った。朝からずっとかけている「田園」が、今日の天気のように心地良い。俺は、明るくて、しかも、静かにしていたい日には、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて活躍したアーティスト、”L.V.B.”のこの曲を、音量はあまり上げずに流しっぱなしにしているのが好きだった。

雨の日は、”J.S.B.”だったが、あの時以来、もう聴いてはいなかった。甘い香りも流れる。はぎ香の横顔が和むのが嬉しい。今朝、珍しく早起きをした俺は、朝露をはじきながら、庭の小さなピンクの薔薇を幾本も切った。生きた証など不要とばかりに、いつ死んでもいいというほどに片付き過ぎている俺の部屋は、あまりにも殺風景だと気が付き、俺は、はぎ香のために、いや、俺たち二人のために、それを部屋に飾った。窓際にも、壁際の床のあちこちにも飾り、長椅子と揃いのトルコブルーの皮を張ったテーブルの上にも、小さく差して飾った。

窓際に引っ張り出した長椅子の中央に、はぎ香は腰かけ、俺はいちばん端に座って肘を着きながら、十四歳になったはぎ香の横顔と窓の外とを交互に見ている。アイスクリームを口に運んでいる。無心な感じ。さっき、少しだけ、微笑みを見せた。手をつないで歩きながらも、ほとんど何も話さない俺たちだったので、俺はもう、その微笑みだけでも充分に幸せだと、すぐ傍に居ながら、遠い恋びとのように胸が痛んで、また、窓の向こうを見る。

前よりも、もっと綺麗になった、と思っている自分に呆れてもいる。俺は、こんな妹みたいな子どもに惚れるほど変態だったなんて。もう、悲しくはないのか、無理に抱いたことが。それどころか、もしかして、彼女にとって俺が初めてだったということが、嬉しいのでは?ああ、オゾマシイよ!青樹!まだ、二十歳前だというのに!そんな老化現象!

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第一章  初恋・青樹 <17>

俺が、バスタオルを手にすると、はぎ香は、それを受け取るのではなく、ゆっくりと、左の足を上げるので、俺は、結局、水滴を拭いながら様子をうかがった。何も出来ないみたいに動かず、頼りなく、俺に委ねている身体。

男と女の、なんという違いだろう。喜びのかけらさえも見えない、はぎ香の様子を目(ま)の当たりにして、俺は、自分を責め、はぎ香を慰めずにはいられなかった。せめて、女に飢えていたのではなく、また、ウヌボレが強すぎたのでもなく、胸が震えるほど、君が欲しかったからだと伝えたくて、俺は、服装を整えてやって、はぎ香の手を握りしめていた。

「君の声が、懐かしいような柔らかい声だったから・・、もっと、君の声を聴いていたくて、帰したくないと思ってしまった。君の何もかもが、俺の中に、染み通るみたいに入ってきて、こんな風に感じたのは、君だけだよ。だから・・。でも、もしかして、はぎ香、君は・・・・?」

目を逸らせて、俯いているはぎ香の横顔を覗いて、言葉を継ぎ足しながら、ただ、かわいいとばかり思って見ていたはぎ香を、綺麗だと思い始めている。俺は、はぎ香の手を放すことが出来なかった。

この子が、口づけることさえ、まだ知らないふうに思えた時、なぜ、やめなかったんだ。たとえ、身体が、求めているみたいになっていたからといって、この子のこの頼りなさを考えてみれば・・・。初めてだという女の子を、いくら今まで知らずにいたからといって、どうして、もっと思い遣れなかったのだろうと。もう、俺の目を見ない。もう、俺が嫌いだろうか。俺は、もう、他の誰よりも、君に惹かれていくのに。

「十四・・・・」

「もうじき・・・・・」

そうだ。五月生まれだった。十三とはいえ、今時、こんなに幼く行動する女の子がいるとは思わなかった。彼女は、誘っていたのではなく、ただ、ただ、懐いて、俺の傍に居たいだけだったのだ。それなのに、俺は、そんなことも分からず、短絡に行動して、彼女の信頼を裏切ってしまった。

自分の思い遣りの無さが淋しくて、まだ別れたくなかった。

日の暮れかけた街に向かって歩きながら、俺は、繋いだままにしてくれているはぎ香の手を、まだ放せずにいた。はぎ香が選んで歩く山際の暗い径(こみち)に、雨上がりの湿った風が吹きぬけ、遠く長い距離に無言ばかりが続いて、別れが近づいてくる。

初めてだったのは、はぎ香だけではない。俺も、終わったあとに、こんなに切ない気持ちになるのは、初めてだった。君が忘れられなくなる・・・きっと。けれど、もう何も話そうとしない、はぎ香。

「はぎ香。明日の昼休み、会える?」

首を振るはぎ香。無言で。会いたくないという意味?

「このまま終わりたくない」

「・・・・・」

「僕を、信じて」

首を振るはぎ香。信じたくないという意味?

「これからも、ずっと、君を大事にするよ」 

俺は、もう、君のもの。

しかし、はぎ香は、俺の全てを否定したいように、首を振った。

手を放せば、力なく下へ降ろしてしまいそうなはぎ香の手を、俺は放すまいと握りしめていたが、しばらくして、はぎ香は、『寒いの』と、妹のように、または、気ままな恋びとのように唐突に口を開き、俺は、”ゆるして”と、はぎ香の肩を抱き寄せた。そして、”受け容れて”と、頬を近づけて触れたはぎ香の顔が冷たくて、俺は立ち止まり、今は幼く思えるその身体を抱きしめた。

「好きだよ」

こんなに悲しいのは自業自得だろうか。暖かな火の傍で君と話した。君の柔らかい声は打ち解けて、俺に、あんなに甘えていたのに。まるで、一緒に暮らしてでもいるみたいに。俺はね、はぎ香、男は、ついつい選んでしまっていたけれど、女の子は選ばないで誰とでも付き合うから、いろんな楽しい女の子も知っているよ。でも、俺には、君の他愛無く話す声が、ひどく心地よかった。

・・・・・何か、言って・・・君の声が好きだ・・・・・

「好きだよ」

俺は、今すぐ一緒に暮らせるほど、はぎ香が大人だったら、今夜だって帰したくない。君のかわいく話す声を、もっともっと聴いていたいと、胸がいっぱいになって行く。

父さんの傍に一生いたいなどと思ったり、雅彦と戯れてキスをしたり、光彦をたまらなく好きだと思ったり、そして、とうとう、あの人の傍に朝までいたり、俺の手を握って眠るKの無邪気な寝顔に、ひとり、アブナイ気持ちになって見惚(と)れていたり。

そんな風に、何かしら、男ばかりを意識して、女といえば、クラスの友だちを別にすれば、公園で出会い、行きずりにする挨拶のようなセックスでしか知らなかった俺の、それは、遅いけれど、初恋だった。

以前から、その顔も名前も知っていたとはいえ、初めて話らしい話をした、それもほんの僅かな時間に、俺の頭は、はぎ香を特別に思い始め、帰したくないとばかり考えていた。

俺の胸の奥深い所にあった白く不透明な人形(ヒトガタ)の空洞に、はぎ香の何もかもがぴったりと重なって、その人形(ヒトガタ)を、透明に、鮮明にしたと思う出会いだった。俺は、長い間、探していたのだと思った。この時を、この女の子を待っていたのだ・・・と、運命的なものさえ感じた。しかし、運命的だ、などと思ったのは、俺の感傷にしかすぎず、全くのヒトリヨガリかもしれなかった。

はぎ香にとっては、光彦と兄妹として育ったことの方が、余程、運命的な出会いなのかもしれないと、光彦の存在は、彼女の全てを支配しているような気がしてきて、不安になった。

もし、そうだとすれば、光彦の、あの、幸運を呼び込まずにはいられない魂の強い輝き。どこまでも天を信じきり、この地上に一つでも多くの美しい実りをもたらそうとするかのように生きる者の力強さ。それは、また、愛する者を守り通そうとする強さにも見え、知らず知らず、天をも味方にして行くような、あの、光彦の強さに、俺はきっと勝てないと、光彦を好きだから、余計にそれがよく分かって悲しい。

結婚という、いちばん自然な美しい形さえ、自分からは遠いものに思い、それどころか、この地上に生きた証など、何ひとつ遺したくないとまで考える俺は、とうとう、天を裏切るような形で愛を知り、天に背いた罰が下されたかのような不幸感の中で、はぎ香を想い続けた。

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第一章  初恋・青樹 <16>

『共同統治には、マヤノという苗字の家が多いんですって』と、はぎ香は説明してくれたけれど、俺とは関係無さそうだ。俺は、ふるさとと呼べる場所を持ってるはぎ香が羨ましいと言うと、『でも。まだ。一度も行ったことはないの』と、あの柔らかい声で言って、俺の腕に寄りかかりたいみたいに髪が触れた。

「お父さまに会いたいけれど・・・」

俺は、その時はまだ、はぎ香を妹のようにかわいいと思って、はぎ香の頬に手を触れたけれど、それから、何故か、俺は、その手のひらの端で、はぎ香の唇にも触れていた。はぎ香は、俺の仕草に応えるように唇が少し動いて、また、あの瞳で俺を見つめる。俺も、その瞳の懐かしさに見惚(と)れて、はぎ香の髪を抱くように胸に引き寄せていた。そして、その時、初めて俺は、はぎ香にもっと触れたいと思う自分に気が付いた。

はぎ香の空になったカップを床に置いて、俺は、触れたいと思う気持ちのまま、はぎ香の額に、頬に、そして唇に、そっとキスをした。唇に触れると、はぎ香は小さく首を振るので、その度に、額や頬に戻って触れながら、少しづつ長くなるキスをして、やっと捉えた。

けれど、俺は、舌を入れないようにと、気を付けていた。はぎ香が何も知らないみたいに思えたのだ。それでも、項に顔を埋めて口づけた時、確かに、はぎ香は、『いや』と言ったけれど、俺から離れるのではなく、俺の胸に縋るように、かえって、その身体を預けてきた。

俺は、少し止めて、はぎ香の肩や腕をそっと抱いて、この子は、まだ恐いのだろうかと、俺の胸に触れた温かい手を軽く握ったが、指先はもう、はぎ香の全てに触れているみたいに感じていた。

髪に口づけて、その澄んだ甘い香りの中で、高まりハヤル気持ちを抑えようとしながらも、もう、このまま帰したくないと思う俺は、『まだ、帰らなくていいの?』と反対に聞いていた。

はぎ香は、それには応えず、『あの上は、どうなっているの?』と、折れ曲がって付いている蹴上げのゆるい階段を見上げていた。『僕の部屋だよ。屋根裏だけど』と、俺は言い、そうだね、上の方がいいね、と思い『上に上がる?』と聞いてみると、はぎ香は頷くので、俺の体は一気に熱くなった。俺は、はぎ香の手を握ったまま離さず、立ち上がった。

階段の途中で、『いいの?』と、俺は初めて、女の子に向かって確かめる言葉をかけ、『帰りたくない』と、甘えて言うはぎ香を抱きしめるかわりに、思わず抱き上げて、戸惑いを見せるはぎ香を屋根裏の中央の広い窓際に降ろした。

雨の街を眺めるはぎ香の後ろで、俺は、低くバッハをエンドレスにした。着ていた白い上着を脱いで壁際に掛けている俺を、はぎ香が振り返り、じっと観るのがわかった。

あの時の俺は、俺らしいのか、俺らしくないのか、分からなくなりそうだった。はぎ香が『いや』と繰り返す分だけ俺は強引になって、はぎ香の自由を奪いたくて、きつく、その身体を腕ごと抱いた。

それは、その行為は、もしかして、あの黄金時代の醜い側面の再現かもしれなかった。強姦、姦淫、淫行、暴行、陵辱・・・今時、死語とさえ感じる言葉の群れが、俺の中で生き返りたいように暴れていた。

それでも、もし、はぎ香が、耳の痛いような声を上げていたのだったら、俺も興醒めして離していたかもしれなかったのだが、はぎ香の声は『やめて』と、小さな声で訴えて言うので、余計に俺は、かわいいと感じてしまって、愛しいと思う気持ちのまま抱きしめて、気が付くと、床の上ではぎ香が大人しくなるまで、押さえた。

”誰を知っているの?やはり雅彦?彼と・・・だから、もう、こんなにも女らしいの?”

俺は、争ったはずみとはいえ、初めて触れた下半身の異性の形が珍しくて、指先を遊ばせた。何故、今までは、したくないと思ったことが、はぎ香に対しては出来るのか、分からないまま、その感触を記憶したいと触れ、体は身体をまだ押さえようと胸を重ね、唇は唇をふさぎ続けていた。

でも。この唇はまだ、あまり慣れていないんだね。何も知らないみたいに、ただ、俺のするままだ・・・と、俺は、やはり、舌を絡ませることはためらって、そっとやさしいばかりのキスを繰り返したが、それが、いつもとは違うことをしているようで、ますます気持ちが高ぶる。

指先も、ひどく滑らか。幼く見える君が、もう女だなんて信じられないけれど、それでも、俺は、もう、どうしようもなく、君に惹かれる。俺の指先に、健康の証しのように反応する君を、もう離せない。

俺は、あのヒワイな体位を、何故、正常位と呼ぶのだろうと、いつも嫌っていたけれど、はぎ香がこのカタチを好むのなら、それでもいいと思った。仕方がないと思うのと、もう待てないのとで、わかりにくいまま、はぎ香に体を重ねた。俺の脚をはぎ香の両ひざが締め付けるのを嬉しいと感じながら。

しかし、その瞬間のはぎ香に、俺は衝撃を受けてしまった。『いや!』と、それまでとは違う激しさで、俺の体が反転しそうな勢いで、身体ごと強く押し返すはぎ香の態度に、今さら、何て子だと、俺は一気に強く入って、そして、ああ、と声を上げそうになった。

すっかり大人しくなって、俺を待っているとばかり思ったはぎ香の身体が、今までの女たちの身体とはまるで違って、拒むように固い。まさか。この子は。いけない、こんなはずじゃなかった・・・と、そんな風に思ったけれど、もう、とても、戻れるはずもなくて、、それどころか、痛いほどに感じる固さが愛しくて、俺は、はぎ香の髪に口づけた。

けれど、俺の腕の中で、はぎ香は、”おにいさま”と声にはならないまま、ココロで光彦を呼んだのだった。それは、まるで、兄というよりは、恋しい人に、何故か、助けを求めていると、そう思いたくなるような悲しげなココロだ。愛しいと、こんなに感じていながら、自分の名前が呼ばれないことの空しさ。

だが、次の瞬間、その空しさを超えて、辛いと思う俺の胸に激しい何かが溢れて、・・・はぎ香、俺は、これからは、君の思う通りになるから、どうか、俺を受け容れて・・・と、祈るような気持ちになって抱きしめると、体がしびれるような震えと、胸の痛みとが同時に押しよせて、俺は、はぎ香から離れた。

慣れているはずなのに、はぎ香とのその瞬間は、自分でも思いがけない早さで訪れ、俺は、強い感激に満たされて、避妊も危ういほどだった。しかし、はぎ香は、もう、泣きもしない。うっとりもしない。離れると、すぐに、ひざを折るように閉じたけれど、それだけがやっとのように、ただ、しおれて頼りな気に横たわった。

俺は、自分の服装を整える時も、バスルームで、俺たちの体液を拭った青い布キレをすすいでいる時も、しまった・・・と、思い続け、起き上がる様子もないはぎ香を、そっと振り返った。

俺は、汚してしまったような気がする彼女の身体を、もっときれいに洗い流してやりたいと思い、、力をなくして、さっきよりも重く感じるその身体を抱き上げ、バスルームに連れて行き、降ろしても、ただ立っているだけの彼女だったので、青いスカートを外し、俺は、初めて、女の子のブラウスのボタンに触れて、自分の手で脱がせた。

プールサイドで目に焼き付いた、あのきれいな肩や背中が表われて、そして、すらりと形の良い長い脚は、胸のふくらみとは対象的に、まだ少女らしいほっそりとした腰を支えていた。

俺は、はぎ香の手を引いて促した。長い髪と、胸に着けている淡い赤紫色に染めた木綿の下着を濡らさないようにと、腰から下に熱いシャワーをかけ、指先に石鹸を取ると、何か、もう、当たり前のことのように、その部分を洗い、そして、確かめるように、触れながら洗い流す。

俺の大事な左手を君のために使う・・・それが、俺にとって、どんなに特別なことか、君には分かってもらえそうにない。俺は、目も合わさず、ずっと、無言だった。恥ずかしいのではなく、ただ辛かった。公園に来る女なら、ともかく、こんな幼い子には、乱暴すぎる行為だったと思うと、出来るだけ静かに、やさしくしていたかった。

窓の外は、まだ白っぽかったけれど、俺たちのいる場所には、もう闇が降りて来ていた。

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第一章  初恋・青樹 <15>

暖炉の前でも、俺は胡座を組んで真っ直ぐに座っていたけれど、はぎ香は俺のすぐ傍に傾いて、ひざを崩していた。広がった青いフレアの裾から、白い素足の指先が見える。そんな何でもない細い足のつま先にも、見ていると懐かしいような気持ちが湧き上がってくる。

「セイジュのお父さまの写真、見てみたいの」

と、はぎ香は言っていた。いきなり、俺ではなく、父さんの写真とは変わってるなと思いながら、俺は、北のターミナルビルの屋上にあるヘリポートで写したのを、はぎ香に見せた。

「五年前のだけど・・」

父さんは写真嫌いだったが、俺の誕生日の記念にとせがむと、一緒に並んでくれた。

あの十五歳の始まりの日々は、何かしら、ひどく特別だったような気が、今でもする・・・と、その写真を見た。あの季節外れの大雪のせいだろうか。あの時、父さんは、翌日の天気予報を信じたんだとは言っていたけれど、R県の仕事場から直接ヘリコプターで帰って来たと言って、俺を驚かせた。

[M & Y] とイニシャルらしい白い文字の入った、美しいトルコブルーのヘリコプターだった。でも、父さん。借りて、すぐ飛ばせるものではないだろう?車じゃないんだから・・・。その日まで、俺は父さんがヘリコプターを操縦するなんて知らないから、ショックだった。そして、そこに、Rの文字のないことが返って気になった。父さんはよくR県へ行くようだけど、あの”R”は、R県の男という意味だろうか、とも思った。R県の”Y”という男なのだろうかと思った。

はぎ香は、『空に溶けそうな、きれいなブルー』と、ヘリコプターに見惚れ、『まるで楽器のよう、このカタチ』と言い、”ナルホド”。それから、父さんを見て『素敵な人・・』と言っておきながら、ガッカリしたような顔をした。アラぁと俺は思ったが、すぐに判った。

「でも、セイジュと少しも似てない」

「僕は、父にも母にもあまり似てないみたい。でも、どちらかというと、母の方に似てるんだ。髪の色とか、皮膚の色とか」

と言いながら、俺は口を閉じた。しかし、はぎ香は、母さんの写真も見たいとは言わなかったので、少しホッとした。母さんの写真どころか、俺は、母さんの顔さえ知らない。

「お父さまの名前が、ミツヒコって本当?」

と、はぎ香は聞いた。

「うん。同じ名前」

と俺たちは見つめ合った。そして、光彦とはぎ香も、あまりにも似ていない兄妹だと思った。沙羅が言っていたけれど、光彦はイマキの四代も前の人に似ているということだった。

その人は西の大陸の北の端れで生まれた人。彼の部族は少数民族であるというだけで迫害を受け、大人たちは法に縛られて、諦め、萎縮して暮らす中で、その人は友人たちに呼びかけ、その弟や妹たちまでも伴って、若者ばかりの集団を作り、”リラ・イエロー”と名乗って、ある日、世界一自由な空気のこの島を目指して渡った。

この島の人々は、他国者を珍しくも卑しくも言い立てながら、関心を持たずにはいられない。 太古の時代から、東の端れのこの弧状列島は、様々な異種民族の坩堝、または、”吹き溜まり”とも言える場所だった。代々、この島で暮らす先住民の中にさえ、世界中の人類標本のように、様々な特徴を備えた顔かたちが見られて、異邦人は先住民に、先住民は異邦人に、自分と同じ特徴を見い出してしまうのだった。個々の人々の見解は様々でも、入植者への大きな反対運動や、まして、弾圧などはおよそ起きない島だった。

光彦は、その、”リラ・イエロー”のリーダーだった人の生まれ変わりのように、”生き写し”なのだと、沙羅は言っていた。

それにしても、似ていない兄妹だ。プラザのスケートリンクで、はぎ香のことを俺の妹だと間違ったヤツがいたほどだった、と思い出した。

離れたところにいるはぎ香に近づいて、一緒に滑ろうと声をかけている俺を見て、そう思ったようだった。俺は、はぎ香とのコンタクトを保留にして、雅彦の傍に戻って言った。

「俺、あんなに無視されたの、初めて・・・。見て!光彦が傍に行くと、あの笑顔だよ」

雅彦も眉を上げて同意した。

「俺たちに話し掛けられて迷惑そうにするなんて、全く!張り合いのあるチビだ。もう少し大きくなったら頑張らないか」

「物好きだなあ。俺はパス」

と、俺が気分の悪いまま応えると、

「青樹らしくない、ムクレ方。あれはね、本当は緊張が強くて声が出ないだけさ。うちのもね、上があんな風で、『嫌われるぞ、お前』って言ってやるんだけど。治せるってもんでもないらしい」

と。そして、こう付け足した。

「あいつらが、さっき言ってたよ」

と、その頃、デッサンのクラスで一緒だった仲間の方を指して、

「『あのこは青樹の妹か?』って!目が似てるってさ!」

と、幾分からかい気味に言って、ムッとする俺から離れて、サーっと沙羅の傍へ滑って行ってしまった。光彦にも、沙羅にも悪いと思って、”よしてくれ”と、俺は、言いはしなかったけれど、思った。俺の妹だったら、もっとやさしい目をして、それに、もっと美人だよ。”はぎ香”?変な名前!・・・と。ごめんね、はぎ香。言わなくて良かった。君はとてもかわいいし、とても澄んだ目をしている。”はぎ香”君にぴったりの可憐な名前!

「お母さまは、何という名前?」

「くみこ。ありふれて、昔風だろ?」

「私の母も、昔風よ」

と、話がそちらに流れてくれて良かったと思う。

「”沙羅”が昔風だなんて思わないな。あれは、”人類不滅”の名っていう気がするもの」

と、俺は、憧れる気持ちのまま言っていた。はぎ香が少しムキになった。

「母は、おかしい人なの。本当は、”まりこ”っていうのに、”沙羅”だって、いつも人にはそういうの。それで、お父さまに嫌われて、別れたの」

と、最後は子どもっぽい短絡な表現をしていた。

「良かったわ。私も、父にも母にも、あまり似ていないの。でも、どちらかというと、父に似ているの」

と、俺と同じような言い方をして、楽しい目になった。

「私の父も、髪が黒くて、皮膚が白くて、セイジュとすごく感じが似ているから、セイジュのお父さまがどんな感じの方か知りたかったの。でも、そんなにそっくりな親子なんて、返って、ないことよね。他人の空似の方が似ていたりするんだわ」

と、それでも、俺をじっと観た。俺は見つめられることに気持ちが揺れて、目を逸らせた。

「そうなんだね。僕の父だって、タイプとしては、僕よりも、雅彦や光彦と近いものね。髪に曲があったり、皮膚の色なんかも、”リラ・イエロー”かな」

と、俺は、自分の気持ちの秘密に触れて言うのを感じながら、はぎ香の手にある写真を覗き込んだ。

父さんを、”ソーラー・ファーネス”に誘いたいなんて、俺には、どんな”スリコミ”があるのだろう。俺が生まれた時、俺を最初に手に抱いた人は、それは、勿論、母さんに違いなかっただろうけれど、でも、目を開けて、俺が初めて見たのは、父さんの顔だったのかもしれないと、そんな風に思えて仕方ない。

母さんは、俺が二歳になる前に、ただの肺炎で逝ってしまい、呆気なかったそうだ。そして、S県で洪水に遭った時、皆だめにしてしまったとかで、俺の家には母さんの写真は一枚もなくて、写真どころか、一族も何もかも失って、俺には親戚も何もなくて、父さんしか知らない。気がつくと、俺の目の前には、いつも、いつも、俺を見つめる父さんの綺麗な顔があった。

俺は、初等校を卒業するまでは、ずっと、毎晩、父さんの腕に抱かれて眠った。俺が、寝返りを打って背を向けても、父さんは淋しいように俺を追って、後ろからまた抱いていた。俺は、そんな風に、いつも俺を離したがらない父さんを、かわいいとさえ思った。それに、実際、父さんの表情には、美しさだけではなく、淋しげにする時など、かわいいところが感じられた。

俺が、雅彦や光彦に惹かれたのも、そして、あの人に惹かれたのも、彼らが、俺とは違って見えるタイプというだけでなく、本当は、父さんと似ている雰囲気の持ち主だからだと、この頃、感じている。一つの恋が終わる度、『今夜は一緒に寝てくれ』と、俺の手を握って涙を落とすKも、また、そうだった。

「セイジュのお父さまって、とても、情熱的な雰囲気・・・」

と、はぎ香が、漸く、認めて言ってくれたけれど、『かわいい』と、俺の十五歳の顔に触れた時には、まだ、何か気にして、

「セイジュも、元は、キョウドウトウチの人?」

と、聞いてきた。沙羅も口にした、その地名。

「共同統治って・・この前、R県に併合された、あの・・・?」

と、俺は、その地名を繰り返して、聞いた。

「私たちの、父と母のふるさとよ・・」

はぎ香の言葉が、雫のように、俺の胸に落ちて来る。

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第一章  初恋・青樹 <14>

「はぎ香。濡れてしまって、冷たくないか・・・。良かったら、本当に来ない?僕、少し寒気がしてね、早引きなんだ。だから、帰ったら火を入れるから、ね、君もおいで」

目の前の坂道を登れば、俺の家だった。俺は、持っていた小さな空色のスケッチブックをはぎ香の濡れた肩に置くようにして、そのまま抱いて促した。瞳を見ると、はぎ香はまたニッコリとした。その時からもう甘い予感はあった。俺一人きりの家に女の子を連れて帰るなどということは、今まで決してしない、したくないことだったのに、俺は、もっと傍にいて欲しいと思わせるはぎ香の、見た目とは違う人なつっこい温かさに惹かれた。

家に入って、居間のテーブルに近づいてスケッチブックを置くときも、暖炉に薪を置く時も、バスルームの戸棚からタオルやドライヤーを出す時も、はぎ香は、セイジュ、セイジュと話し掛けながら、俺の後ろに着いて回った。

俺は、道端で出会う犬や猫によく『ワン!』と呼び止められたり、『ナーン?』と話し掛けられたりしたが、人間の小さくない女の子にこんなに懐かれるのは初めてだった。なぜ?と不思議な気がして、そして、楽しくて、はぎ香を妹のように構ってみたくなった。

暖炉の前に座らせて、俺は自分の手ではぎ香の濡れた長い髪や肩を拭いてやった。はぎ香は嫌がりもせず、それどころか、誰かにそうして貰うことが当たり前のように、じっとしている。ドライヤーもかけてやりながら、『柔らかくて、素敵な髪だね・・』と、その髪を指先で梳くように撫でていると、はぎ香は気持ち良さそうに瞳を閉じた。また、さっき葉桜の下で感じたのと同じ無言が、俺の中に流れた。

はぎ香の髪から、そして、子どもっぽい水色のブラウスの胸元から、あの甘い香りが立ち昇ってくる。あどけないその様子からは決して想像のつかない、強く、甘く、けれど、自然の花のような澄んだ香りに、俺は魅せられていた。乾いてしまった髪にまだ触れながら、もう何度もキスをした後のような気持ちになるのに気がついて、漸くドライヤーを止めると、はぎ香は、うっとりとする瞳で俺を見上げた。俺も見つめ返しながら、俺の方が目を閉じてしまいたいような、やさしい気持ちになる。本当に、キスしてみたい・・・かわいすぎる。

俺の分とはぎ香の分と、二つの空色のカップにミルクを注ぎ、調理ボックスに入れている俺の背中にはぎ香は寄りかかってきた。プールサイドではスラリと背の高い印象のはぎ香だったけれど、やはり、俺から見れば、かなり小柄だ。俺がくすぐったいのも気にしないらしく、背中を合わせて、頭もぴったりとくっつけている。やっぱり、あれは、はぎ香だったのではと思い言ってみた。

「はぎ香。そんな風な趣味があるんだ!?」

「どんな?」

「こんな風に、男の背中にもたれる趣味・・」

「ないよ」

はぎ香はさらりと言ったが、まだ離れない。何だか危ない気持ちになりそうだよ、と相手が子ども過ぎて言えなかったけれど、感じていた。

「この前、見たよ。君がスクールバスで、髪の長い男の背中にすっかりもたれて、吊り革も何も持たずに、ずっと学校までそうやっていたの・・」

『ああ』と、はぎ香は否定しなかった。

「初めは、振動で偶然寄りかかったの。でも、広い背中が気持ち良くて。その人、きっと、やさしい人だったんだわ。怒らなかったもの」

「それでもね、その男は、一体誰だろうって、厚かましい女の子の顔を見てやろうと、そして、目でも合えばしめたもんだと思ってね。降りていく横顔をじっと見たらしいけどね、その女の子は見向きもしないで降りていった。坂道で後ろから追い抜いて、チラッと振り返ったけどね、その時もまるで知らん顔っていうか、友だちとのおしゃべりに夢中で、だから、見当違いだったかなって、ガッカリしたんだけど・・」

と、俺が振り向いて言うと、はぎ香もやっと分かったらしく、

「ああ!あの人は、セイジュだった!?」

と言い、それでも、まだもたれている。

俺はもう、何人もの女と抱き合うことに慣れていたけれど、はぎ香のするような仕草には慣れていなくて、かわいいんだなと、そのままにしていたが、それにしても・・・と思った。はぎ香は、初めは知らん振りをしていながら、一旦なつくと、もう離れたがらない子猫のようだ。かわいい。光彦がかわいがるはずだ。いや、違うかもしれない。かわいいから、光彦がかわいがるのではなく、光彦がかわいがるから、あのキツソウナ女の子が、こんなにもかわいい子になったんだ。きっと。

俺は、まだ初等校の頃の光彦にも、一度だけ、こうしてミルクを温めて飲ませたことがあった。遊んでいても、思い出したように駆けつけて、はぎ香の傍に行き、いつも早く帰ってしまう光彦だったが、その日は、皆が帰っても帰らず、俺に着いてくるので、公園のベンチに一緒に残って、光彦の肩を抱いてやりながら話し込んだことがあった。そして、公園のその場所からは、もう俺の家の方が近かったので、家に誘ってみた。

いつか、光彦のお母さんが、少し神経が衰弱しているとかで通院していた頃、光彦を家まで迎えに行った時、今日は台所の掃除をしたいから遊べない、というのを聞いて、俺は『沙羅には内緒だよ』と、光彦に言い聞かせて、片付けを手伝ってやったことがある。

親が留守の家には上がらないようにと、父さんからは教えられていたけれど、俺はどうしても光彦を手伝いたかったし、病気の沙羅をいくらかでも楽にしてあげたいとも思った。俺は、小さい頃からの慣れで、少しも苦にならず、むしろ、楽しいと思うほどだったけれど、慣れないまま、なんとかしたいと思っているらしい光彦には辛いのかもしれないと、その時から、なんとなく、かわいそうに思っていた。

雅彦も、家庭の事情は違っているけれど、よく、あの、ひいおばあさまのところへ”家出”をする。光彦も、時には、家以外の場所にいたいのかもしれないと思い、言ってみた。

「光彦、泊まって行かないか」

けれど、光彦は、明るい笑顔を取り戻して、『泊まりたいけど、はぎ香が淋しがるから、もう帰る』と、元気になって帰って行った。良かった・・と見送りながら、俺の方が、ふと、淋しかった。雅彦としたように光彦ともしたいなどとは思わなかった。俺は、むしろ、そんなことにもしなったら、光彦に対しては、もっと、どうしようもなく、のめりこみそうだと感じて、返って距離を保っていた。というのも、俺という人間は、もしかして、本当に・・・と、もう一人の自分を意識するようになったのは、光彦と出会ってからだった。

光彦は、年下だったけれど、少年の顔の向こうに見える男っぽさが、眩しくてたまらない気持ちになる。雅彦がうらめしかった。俺が沙羅と話すことに夢中になっている間に、雅彦は光彦を誘ったらしいのが感じられた。雅彦は何でもないように振舞っていたし、もうその頃の雅彦にとっては、女の子にキスをするのも、男の子にキスをするのも、ごく当たり前の事でしかなかったのだろうけれど、光彦が俺を見る目で、二人が急な近づき方をしたのが感じられた。

光彦は、俺に対して、何か、後ろめたく思うらしかったし、また、俺に対して、何かを求めるような目をするようにもなった。そして、そんな光彦の目が、いつも、俺を幸せな気持ちにしていたから、目の前から消えてしまうと、淋しかった。

だが、そうは言っても、光彦は、何よりも妹思いだった。あんなに無愛想な子でも、妹っていうのは、そんなにかわいいものなのかなと、理解できないなと、その頃は思った。雅彦にも、腹違いとはいえ、二人の小さな妹がいたけれど、かわいい子だったけれど、妹なんて、わがままでうっとおしいだけ、と嫌うように言っていたので、そんなものなんだろうと、雅彦の言う方を信じていた。

けれど、今、淋しがり屋の小さな生きもののように、俺の後を追い、俺の背中にもたれている、このはぎ香が、もし、こんな風にして毎日一緒に暮らす妹だったとしたら、かわいくてたまらないだろうし、それに、毎日がどんなにか明るくて楽しいだろうと、想いを巡らせ、その日、俺は初めて、自分の日常がつくづく寂しいものに思えた。

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第一章  初恋・青樹 <13>

けれど、それっきりになってしまった。次に訪ねた時、あの人のあの小さな家はもう取り壊された後だった。もうD村にはいないと、おばあさまから聞いた。

「あなたが泊まったっていうのは、本当だったのね?」

俺が子どもだから、だから、いけなかったのだと分かって、悲しかった。何も悪いことはしなかった。あれは、そんなにいけないことなのだろうか。俺が自分から望んだこと。そして、それを、とてもやさしくしてくれた人が罪人のように故郷を追われるなんて。悪いとされるのだったら、それは、俺の方なのにと、俺はおばあさまに、あの人はやさしい良い人だったと訴えて泣いた。かわいそうにと、おばあさまは俺に言われた。おばあさまも、あの男はそんなに悪い男ではない、私もあの男が気に入っていた、『だから、家の用事も頼んでいたのだものね』と、慰めてくださった。

俺は、雅彦と一緒に行動することは少なくなっていったが、おばあさまの薪割りを、あの人の代わりに引き受けるようになった。雅彦も時々来て、そんな俺を見ていたけれど、お互いに、あまり、口をきかなかった。あの人がいなくなったのは、コマキ宗家の長男である雅彦のなんらかの力が働いた、そう感じていたので赦せなかった。

その頃の俺には、あの人が随分と年の離れた男に思えたけれど、あの人は、まだやっと二十歳だった。大人だったけれど、一族の中で庇護されて暮らすあの人は、あの人より年嵩の人間や、宗家の人間には逆らえない年だったのだ。そして、また、ひいおばあさまの遠縁というだけで、外には頼る人もない弱い立場の男でもあった。その人を雅彦は・・・そう思うと、その傲慢が赦せなかった。

あの人の旅立って行った先が、どんなに賑やかな大都会であったとしても、あの人の淋しい目には、そこが荒野のように映りはしなかったかと、今でも切なくなる。今でも、会いたいとも思い、しかし、幸せには暮らしていないような気がして、会いたくないとも思う、哀しすぎる存在だ。

あの日の夕方、突然、父さんが帰って来なかったのなら、俺はきっと、また出かけていただろう。もし、あの後もあの人に逢い続けていたなら、俺は・・・俺も一緒にD村を出たかもしれない。傍にいるだけで気持ちのいい・・・そんな人だった。あの人の教えてくれたことは、一つの経験に過ぎなかったけれど、あの瞬間の美しい叫びが、いつまでも俺の中に憧れとして残った。俺も、そんな風に、いつか誰かを抱いて愛したいと思う憧れ。

その年の秋も深まり、冬を迎える準備も整う頃、もう、俺と雅彦はすっかり疎遠になっていた。雅彦が俺を見ていると感じる時、俺は見なかったし、俺が雅彦を見る時、もう、雅彦は俺を見なかった。時々、『行くな!』と、雅彦が掴んだ俺の手首に痛みが甦ったけれど、裏切ってしまったのだろうかとも思ったけれど、いや、いいんだと思い直す。俺はいつだって何だって真剣だったけれど、雅彦はいつだって何だって遊びなんだから、だから、もうこれでいいんだと思った。

それに、雅彦は、転校した体育系予選校でも女教師を誘惑して、その女教師だけがクビになるなんて、趣味の悪い遊びは止まないらしいし、いつの間にか女の子の好みも違っている。俺は、大柄で華やかで、あからさまに目立とうとする単純明快な大人の女が好きだったけれど、雅彦は、大人しくて控え目で、それでいて何かキツソウナ、あどけないようで、ひどく大人びた、そんな複雑怪奇な”子ども”にも趣味があるらしいと、はぎ香を見て、やや皮肉っぽく思った。それでも、きれいな背中に弱いのは、いまだに同じかなと思っても見た。

ま、どちらにしても、ヤツと付き合って何もない女の子なんて、聞いたことがない。この、はぎ香が、毎晩のように窓から雅彦を誘うっていうのは、多分、本当のことだろう。とても、そうは見えないけれど。それに、相手が雅彦なら、きっと、もう・・・だろう。子どものくせに!と思いながら、俺の胸に、ふっと温かく膨らむものを感じる。

はぎ香は、近づく俺に気がついて、目がニッコリとした。俺は、初めて俺に向けられたはぎ香の笑顔に戸惑って、こんなにかわいかったかなと、伏し目になりそうになる。柔らかそうな明るい色の髪がかなり濡れている。俺は友人のKが貸してくれた流行(ハヤリ)の裏花模様の傘をさし掛けた。彼女が、髪も眉も睫毛も、色を変えているって本当だろうか。

「どこまで行くの?」

『マヤノさんち・・・』と言って笑う。気になる冗談に、俺も笑った。

風を避けて少し俺の傍に寄ったはぎ香の身体から、思いがけず、甘く澄んだ香りが立つのに驚いて、俺は、このKの美しい傘が、男物の中でも特別に大きな傘なのを恨めしく思っていた。葉桜を通して落ちてくる雨の音の中で、時が止まってしまいそうな、そして、何かが逆立つような感じがして、はぎ香の声を聴く。

「セイジュのクラスにはハンサムな人がいっぱいいるからって、お友だちはみんな、プールの時間を楽しみにしているんです」(呼び捨てなんだ、俺のこと)

「友だち?君は?」

「私・・・私も少し。この前、Kさんに話し掛けられて」

「迷惑だったろう?ハンサム過ぎて」

と、小さいころのはぎ香を思い出して言う俺に、クシュンと笑う。

「みんなに羨ましがられた・・イチバンニンキの人だから」(だろうね)

「それで、二番目が僕?」

『違うの!』と、まあるい目になって言うので、『違うの?』と、俺もその目を覗き込んで、また笑ってしまった。『見る目ないんだな。子どもは』と言うと、はぎ香も笑った。

「Kさんとお揃いの傘?」

「いや。Kの傘だよ」

「あぁ・・。あのね、セイジュはライバルだって、みんな騒ぐんです」

「ライバル!?」

「だって、いつもKさんの傍にいて、Kさんを見る目がヤサシスギで、オカシイって・・・」

「ふ~ん・・!鋭いんだね!子どもは!」

と、俺はからかい気味に肯定してみた。

「でも、仲が良すぎるだけでしょ?」

「そうさ。時々一緒に寝るだけだよ」

『嘘!?』真顔で見るのでおかしい。

「ホントだよ。手をつないで眠るんだ。俺たち、アイシアッテルから」

「じゃあ、Kさんの寮のベッドに、ショッチュウ一緒にいるっていうのはホントなんだ」

『うん・・』秘密ではないことだったけれど、言い過ぎた気がして、俺は遠くを見た。

「Kのベッドの下の引き出し、すごいんだよ。もう、かわいい封筒がぎっしり。なのに、本命にはいつも振られている。今もね、失恋中だから、チャンスだよ。はぎ香、きちんと紹介してあげようか?少し淋しがり屋だけど、やさしいんだよ」

「Kさん、魚座。私は、・・・いいの」

と、はぎ香はそう言っただけだった。何か、雅彦のことが聞き出せないかと思って言ってみた俺は、当てが外れて、とうとう、聞いてしまった。

「蟹座の男がいい?」

はぎ香は少し困った目をして、『素敵だけど、危ない人っていう感じ・・・』と、応えるので、うんうんと、心の中で頷くように聞いていると、『どちらかと言うと、獅子座の人の方が好きよ。恐くない感じ』と、打ち解けた表情で俺を見上げた。よく知っているんだね、君が俺たちに興味を持っているとは、知らなかったなと思う。

それから、はぎ香は、私、双児座生まれになりたかったわ、あと一日なの、とか、セイジュはきっと、A型でしょ、光彦がB型で、私はAB型だから分かるの、とか、話している。俺は、クラスの女の子から、『きっと、Bだわね』と、言われたことがあったけれど、確かに、はぎ香の言う通りAだった。

女の子のおしゃべりは、はぎ香のように他愛無くても、クラスの女の子たちのように小賢しくても、みんな、かわいいと思って聞く俺だったが、彼女は、もっと特別にかわいいと、黒目がちの明るい瞳を見つめた。声が、ココロに染みるように、柔らかい。

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第一章  初恋・青樹 <12>

恐くないと言えば嘘になる。しかし、不安だったのは、あの人の顔を見るまでのことで、俺は、戸口に立って俺を招き入れてくれる、あの人の笑顔に気持ちが和んでいった。俺が訪ねて行ったことを喜んでくれた。君は、俺のことを知っていて来てくれたのだから嬉しいと言ってくれた。

「ね?君に見てもらいたいのだけど・・・」

彼が、健康カルテのケースを取り出すので、律儀なんだろうかと思った。病気があれば、ここではなくて病院にいるはずなんだから、と思いながら、俺も一応、自分のカードを見せようと取り出したが、彼は『違うんだ』と言って、横から一枚の写真を引き出すので、それを見せたいのだと解った。彼は俺の目を親しげに覗きこんで、ニッコリとして、その写真を俺に渡した。

「俺が、君たちを見てどんなに驚いたか、どんなに楽しく不思議な気持ちになったか」

と言う。手渡されて、ああ・・と俺も思った。

「俺の父と母。予選校の頃の写真なんだ。父と母は幼なじみでね、そのまま結婚した幸せな人たちなんだけど・・・」

「で、生まれた。あなたが」

「うん。でも、仲が良過ぎて、死ぬ時も一緒に逝ってしまった」

彼が見て欲しいというのも無理ない。俺も本当に不思議な気がして、目を凝らした。そこには、俺と雅彦が写っているのかと思うほど、彼の父は雅彦に、彼の母はこの俺に似ている人だった。俺は、これまでよりももっと親しみを感じて、そして、来てよかったと、彼の楽しく見ている目を見つめ返しえた。

「以前ね、あの子にもこれを見てもらいたいと思ったのだけど・・・」

と、彼は苦笑した。

「誤解された?」

「うん・・。でも、誤解でもないよね。俺は女の子を知らないから・・」

俺は、後ろめたい気持ちになった。経験したくて、ここに来ているなんて、失礼なことをしている気がしてくる。それでも、俺は帰らなかった。他人が作ってくれるものは何でもおいしく感じられて、豚汁を三度もお代わりした。そうして、案外とよく話す彼の声を、美しい音のように聞いているだけで気持ちが良くて、帰りたくないと思った。

夜更けて、俺が本当に泊まっていけると判って、嬉しそうにする顔をかわいいなと思う。

「君と一緒にいると、何か、別なもう一人の俺がいるのを感じる。やさしいきれいな女の子と友だちになるとこんな感じだろうかって。そんな風に考えたりして、だんだん、君が女の子じゃないのが残念な気持ちになってくる」

『おかしいね?』と、笑う顔もかわいいなと思う。

ベッドの中で、腕に抱いてくれたけれど、疲れているのか、ただ抱いたまま、静かな寝息が聞こえてきて、俺は、噂とは少し違う邪気の無い彼を、でも、かなり淋しがり屋らしい彼を、好きだと思って目を閉じた。朝になれば、俺たちは一つになるんだと念じながら。

朝は、彼が顔を洗うらしい水音で目が覚めた。俺も起き上がって軽く口をすすぎ、顔を洗った。それから、『まだ、帰りたくない・・・』と、その広い胸に寄りかかって甘えた。抱きしめられる心地よさにボーっとなって、気がつくと、唇がいつのまにか、彼の乾いた清潔な唇で、囁いてでもいるみたいに愛されていた。

俺と一緒にベッドへ戻って、彼はもうためらわなかった。

「こうして後ろから見ていても、うっとりするよ・・顔立ちだけじゃなくて、腰の線まで男の子じゃないみたいにキレイ。君のようにキレイな子がこんなにも近い場所にいたなんて・・・君が今、俺の傍にいるなんて・・・」

あの人の囁く声は、痛みを癒す麻薬のように俺の脳内に働きかけてきて、俺の体を包んだ。痛いことが何も恐くないほど、やさしくて、でも、最後には溜まっていた気持ちを吐き出すように、彼は声を上げて俺を抱きしめた。その瞬間の、獣の咆哮のような声を、俺は、男らしく美しい声だと感じて聞いていた。

その部分の痛みよりも、その腕に強く抱きしめられたことと、そして、俺を抱いたことで、あの人が発した美しい叫びとが、俺の頼りない気持ちをすっかり埋めていた。父さんといると何かしら寂しいけれど、この人といるともう寂しくない、と俺は思った。俺と分かち合った悦びを即興で歌う、あの人の幸せそうな明るい声。

  俺は もう 君のもの

  しなやかに 君を抱きしめて

  俺が上げる 獣の叫びは

  君が望む 自由の証しだろう?

  俺は もう 君のもの

  恐がらないで

  俺は もう 君のもの

目を閉じて、肉や骨を通して伝わるあの人の声を聞きながら、俺は喉の渇きを感じていたけれど、それを察したのか、俺の頬を支えてあの人は、その唇から澄んだ体液を、まるで冷たい清水のように澄み切った美しい体液を、少しずつ少しずつ、俺の口に注いで癒してくれた。俺は意識を取り戻した旅人のように目をあけて、愛しい人の声を見つめていた。

「セイジュ・・俺、あんな声を出してしまって・・」

あの人の顔にあどけない笑みが浮かぶ。『恐かった?』

「俺・・・」

「・・・?」

「俺・・・」

「なに・・・?」

俺は、自分でも何が言いたいのか分からなくなって、また目を閉じて、もう何もかもあの人のしてくれるまま『大丈夫だよ。呼び戻してあげる』と囁くあの人の指先に感じて、人前なのに射精し、やっと、本当に吾に帰った。しかし、この人は俺を、俺はこの人を、幸せにしたと思うお互いの喜びは消えなかった。

『また、来てもいい?』という俺に、うんうんと、やさしい目で頷いて、あの人は『霧が深いから気を付けて』と言いながら、見送るのが辛いみたいに、戸口で引き止めて、もう一度、あの温かい胸に抱きしめてくれた。

俺は、真っ白な朝霧の中を、ただ勘に頼って思い切り駆けながら、胸であの人の名前を繰り返した。ニシゴリ・ヨシユキ!ニシゴリ・ヨシユキ!ニシゴリ・ヨシユキ!濁音が混じっているにもかかわらず、特別に美しい名前だと思えて、繰り返した!ニシゴリ・ヨシユキ!ニシゴリ・ヨシユキ!ニシゴリ・ヨシユキ!『セイジュ!セイジュ!セイジュ!』

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第一章  初恋・青樹 <11>

ひいおばあさまは、歯の並びも美しく、よく透る声でおっしゃった。

「こんなことを言うと失礼かしら?ね、雅彦、さっきマヤノくんを紹介してくれた時、ドキッとしたの。あなたが、かわいい女の子と一日中いたのかと思って。本当にかわいいわ。赤い唇も素敵だこと」

雅彦に何度もやさしく強く吸われた唇を、俺も、いつもより、ふわっとしたものになっている様には感じていた。俺は、おばあさまに、ニッコリと愛想良くすることで気持ちの揺れを抑えた。けれど、雅彦は、上手く行かず、見失ったように動揺を隠し切れず、顔全体が、さあーっと色を帯びて一層華やぎ、その目は、キラッと光って、一瞬、俺を見たが、次の瞬間には睫を伏せた。あり得ない!雅彦が、誰かと目が合ってその目を伏せるなんて!

俺は、雅彦にも、何でもないように普通にニッコリとしたが、テーブルの下で雅彦の足をコーンと軽く蹴ってやった。”素敵だよ。変態野郎!”ココロを送ると、雅彦は自分を取り戻して笑った。そして、送り返してきた。”かわいいよ。両性具有!”そんな俺たちを、男が訝しげに観ているのが分かる・・・また、目が合った。互いに微笑んだ。実は、その日は、結局、一言も話さなかったけれど、それが、俺とあの人との最初の出会いだった。

それからも、時々、雅彦とおばあさまの家に行って、初めは、雅彦に見習って、うさぎ小屋や鳥小屋の掃除をしたり、鳥の餌にする青菜を刻んだり、貝殻を砕いたりということをしていたけれど、俺は、だんだんと、その男がしている薪割りをしてみたいと思うようになって、だんだんと、近づいて傍で眺めるようになり、そして、だんだんと、手伝わせてもらえるようになった。

「ずっと、一人きり暮らしているの?淋しくない?」

「時々・・・」

硬い横顔だったけれど、言葉は打ち解けたものに聞こえた。

「もし、俺が遊びに行ったら、嬉しいと思うくらい、淋しい?」

話し掛けやすいと思うまま言う俺に、その男のムッとしていた顔がほころびて、俺を見た。

「来てくれるの?」

「うん。気が向いたらだけど」

「いつでもいいよ。もし、君が来てくれたら、朝まで一緒にいたいと思うくらい、淋しい。・・・ムリだけど」

「ムリじゃないさ。俺、とっても自由に暮らしているから」

年は離れているけれど、友だちになれる人間だと感じていた。

そんなある日、プラザの雅彦の部屋に近い出入り口まで行った時、雅彦とお母さんとの言い争う声が聞こえてきた。俺が、一人暮らしも同様の生活をしているということが、雅彦のお母さんには気に入らないらしく、というよりは、心配らしくて何か言ったのを、雅彦は、友だちの悪口を言われたという気がしたらしくて、俺のためではあったけれど、ひどく腹立たしげに激しい口調で言い返しているのが聞こえた。俺は、少し気まずい気持ちになりながら、約束の時間だからと、そのまま立ち尽くしていると、勢い良く、雅彦は飛び出してきて、ハッとなって俺を見た。

「青樹・・来ていた・・」

俺は、何でもないように笑顔を見せようとしたけれど、雅彦は、そうはさせまいとするかのように、鋭い視線を俺に向けてきた。

「ずっと聞いていたのか!そこで?平気で?何故帰らないんだ!」

俺は、雅彦の語気の荒さに悲しくなった。

「どうして!青樹はそうなんだ!いくら、俺の前だからって、どうして、そう、弱い自分をさらけ出すようなまね、するんだ!もう、顔も見たくない。帰れ。絶交だよ!帰れ!」

俺は悲しいまま睨み返し、背を向けて走った。分かれ道で振り返ると、まだ、雅彦も睨みつけている。俺は、ふと、北ブロックへ向かう道ではなく、あの男の家に続く径(こみち)へと踏み出して駆けた。『いつでもいい』と言ってくれた。親切だから、俺は、あの人、好きだ!雅彦は、あの男に近づくなと意地悪く言うけれど、”俺は、あの人、好きだ!”と、一目散に駆けた。けれど、あの人が言っていた方形造りの小さな家が見えてきた時、どこをどう来たのか、先回りした雅彦が待ち伏せて、俺を通さなかった。俺の手首を掴んで離さなかった。

「行くなよ。絶対行くなよ。行けば、本当にもう絶交だ。あの男がどんな男か、一族の中で、アイツが誘いをかけないのは、この俺くらいのもんだよ。親父への遠慮があるからね。そんな男のところへ。わざわざ・・」

俺は悔し紛れに言っていた。

「君には関係のないこと。俺が誰と付き合おうと、君にとやかく言われることはない。何でも自分の思う通りにばかりしようとする雅彦なんて、俺ももうごめんだ。うんざりだ」

「ふん。今度はあの男が君の”父さん”の代わりなのか。結局、誰でもいいんだね」

「雅彦じゃあるまいし。誰でもいいなんてことないさ。俺は、光彦」

俺は、その時、雅彦が少なからずダメージを受けそうな気がして、光彦の名を口にした。

「俺は、光彦。だけど、君は光彦を誘って、俺から取ってしまった。俺たちを遠ざけた。君は、いつだって、何だって、自分の思う通りで気持ちがいいだろう?その上に、まだ、俺の付き合う相手も、君が決めてくれるってわけ?どけよ!」

と、俺はその手を振り払った。突き飛ばしてやろうかとも思ったけれど、それより素早く雅彦は森の中に駆け込んで、もう振り向きもせず見えなくなった。俺は、気持ちを落ち着けるようにゆっくりと歩いて、あの人の家の前に立ち、もう一度、服装が乱れていないことを確かめて、ノックをした。

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第一章  初恋・青樹 <10>

「青樹・・・気持ち・・イイ?」

囁く雅彦の声にうっとり目を開けて俺は、俺の顔を覗き込む雅彦に『うん・・・』と、正直に応えてしまった。雅彦の目も眩しそうにキラッと光る。俺は、雅彦のこの表情がすごく好きだ。

けれど、俺たちの関係は、だからどうということもなく過ぎた。そんな風に遊んでみたのも、その日一日だけのことで、あとは、ごく普通に仲が良すぎるだけだった。俺たちは、男と男が愛し合う方法を試そうなんて本気では考えられなくて、服を脱いだのも上半身だけだった。俺は、ただ、雅彦と肌が触れ合っていることが気持ち良くて楽しかった。

雅彦が”ソーラー・ファーネス”の相手は、5歳の頃好きだった”さやか先生”だと打ち明けたから、俺も打ち明けた。俺の相手は”父さん”だと。雅彦は驚いていた。あまり驚くので、困ったなと、打ち明けなければ良かったと思った。

「確かにね。俗っぽいばかりの俺の親父なんかと違って、君のお父さんはとても洗練された感じで、男らしくて、その上、この世の人じゃないみたいにキレイだしさ、ワカラナイでもないけど・・・」

でも、やっぱり、ワカラナイと雅彦は言った。

「青樹、こんな風にキスしたのは、本当に俺が初めて?もしかして、君は、その・・・お父さんと、もう、何か・・・」

「何かって?」

「だから・・・」

と、雅彦は俺の背中からそのまま手を滑らせて腿にまで触れた。

「だから・・こんな感じに触るとか・・」

「こんな・・感じにさわるとか!?」

俺も雅彦の手をつかんで、固くなっているところへ戻すように押し付けて、言ってやった。

「しないよ!そんなこと」

「でも。危ないな。男を危ない気持ちにさせる青樹が、男を受け容れる気持ちを持っているなんて。危なすぎだよ」

男と男との行為について無知だった俺は、

「そうかな。でも。好きだったら、いいんじゃない?」

と応えてみた。すると、雅彦はかなりの真顔になった。

「俺のこと、好き?」

「好きだよ」

「じゃあ、もっとしてもいい・・・」

囁いて言う雅彦に俺は、うっとりした気持ちが甦って、うす目になって雅彦を観た。けれど、雅彦は軽いキスをしてすぐに顔を離すので俺が目を開けると、『違うよ、青樹。・・・俺のをね・・君のここへ!』と、さっきよりも強く、マトモに後ろから押し付けるので、俺は驚いて起き上がった。

「なに?雅彦!そんなのイヤだ!できない!」

「だよね。もしかして、俺は、嫌じゃないかもしれない。君とだったら。でも、やっぱり、できないよな」

「デキナイヨ!」

「ごめん」

「・・・・・」

「・・・・・」

「結局、そんな風にする関係になるの?」

「らしいよ。知らなかったのか?」

「俺、やっぱり、相手は女の子がいいかな・・・」

「そうだね。でも、俺、青樹とだったらしてみたい」

「イヤだ。特に雅彦はだめだよ」

「どうして?好きだって言ったじゃないか・・・」

「そうだよ。もし、俺、女の子だったら、きっと今日、バイバイ・バージンさ」

「ほんとう?」

「うん。雅彦やさしいから。でも雅彦は、男と暮らすなんて考えられないだろう?」

「青樹は考えられるの?」

「考えられる。俺、あんまり気にしてない。男とか女とか」

「青樹・・・、俺が、してみたいなんて言い方したから、だから、気を悪くしてるんだ、そうだろう?ね、ごめんね。俺、君としたい。君とだったらできる」

「だめだよー、今さら言い直しても。雅彦は好奇心ばっかり強くて、そのくせ、すぐ飽きる感じだもの。俺、今だって少し後悔してる。君の手も、君のキスも気持ち良過ぎ」

最後の言葉は本当の感想だったし、詰まらなさそうにしょげてしまった雅彦の気持ちを、もう一度引き立たせてやりたいと思った。

「あーーー!もったいない!俺のファースト・キス!」

俺は、小声ながら勢い良く言って青いシャツを羽織り、雅彦はキラキラ光るベージュのTシャツからもつれそうな曲毛と褐色の細面の顔を出したが、

「でも。青樹。俺だって、初めてさ」

と言うのだった。

「えーー?ほんとう?」

「ホント・・」

おかしかった。たくさんの女の子たちに取り巻かれていながら、雅彦にとっても、俺にとっても、これが初めてのキスだなんてと、おかしくてお互いを笑った。

「雅彦って、天才!」

俺は、舌まで絡ませて気持ちよくしてくれた雅彦を意味して、俺の舌がかわいく丸くみえるようにべたっという感じに下唇の上に出して見せた。

「俺、止めようって思ったけど、青樹がもっとって顔するから、止められなくて」

「そんな顔しないよー」

「するさー」

俺は歌うように『しないよー』と繰り返して、そんな風な顔をしてみせる。

雅彦はすかさず、もっと長いキスをしてきた。俺はどうしても、それをイヤだと思えない。俺を女の子のようにカワイイなんて言うけれど、雅彦だって、その悪そうな目に似合わず、女の子のようにやさしい形の唇じゃないか・・・。

俺は、雅彦が抱いてくれるまま、素敵だと、雅彦の体に寄りかかり、掛け終えたばかりの俺のシャツのボタンを、雅彦の指先が二つ、三つとはずしてしまうのもそのままにして、結局、その日一日中、二人で抱き合って戯れて、とうとう、お互いの肩や胸にいくつもの赤い小さなアザを残してしまった。

夕方、俺たちは、おばあさまの手料理を行儀良くご馳走になった。薪割りをしていたらしい男も一緒だった。特に挨拶らしい言葉も交わさなかったが、目が合った時、綺麗な男だなと思った。

スラッと背が高くて、印象が華やかで、キラッと光る目は悪そうにも純情そうにも見えるけれど、全体にはどこかやさしい雅彦の風貌は、コマキ一族の誰に似たのだろうと思っていたけれど、雅彦はこのひいおばあさまと、そして、雅彦とは違って随分無口そうなこの男とに似ていると、その時よくわかった。

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第一章  初恋・青樹 <9>

その光彦の妹はぎ香が、最近、雅彦の新しい相手だと公園で噂されているのを、俺も聞いていた。雨の中だったせいもあるかもしれないが、いつもは気に掛けなかったはずの彼女に目を留めたのは、緑の中に浮かぶ白い横顔が淋しげに見えたこととは別に、まだ俺の中に残っていた雅彦へのライバル意識と、そして、嫉妬にも似た気持ちのせいかもしれない。同じ年で、八月生まれの俺と、七月生まれの雅彦とは、何かしら気の合うところがあるにはあったが、いつも、わざとのように、同じ女の子にばかり関心を持った。俺が意識する女の子を雅彦も意識し、きれいな子でも、雅彦が近づかない女の子には俺も近づかないというふうで、そんなことをゲームのように繰り返して過ぎたから、失恋?する時も一緒だった。

初等校の卒業前だったが、俺たち二人と気の合うと思える同じ十二歳の女の子と友達になりかけた。けれど、結果はヒドイものだった。俺も、雅彦も、もしかして、その女の子こそ、初体験の相手になるかもしれないと、張り合う気持ちがつのって険悪になりかけた時、その女の子と何度もネタとと言っているヤツがいるのを知った。問い詰めて聞くと、彼女の相手は自分だけじゃない、外に二人はいる。この前は自分たち三人と一晩中だったと言い出したのだ。俺も、雅彦も、ショックを受けるあまり興冷めしてしまった。なんていう女だ!と、かわいい顔を思い出しては、吐きたいものをこらえるようにして過ごした。男をバカにしている女だ。選りに選って、そんな女を張り合ったことが腹立たしくて、俺も、雅彦も、自己嫌悪さえ感じた。無垢にしか見えなかったその女の子を恐ろしいととも思った。『まさか、今時、バージンに拘るつもりなどないけど』と、俺も雅彦も、虚勢を張るように話し合った。それでも、『ネイチュア!』天は!祝福するのだろうかと、自分達の純情を誇らしくも哀しくも思っていた。

「かわいいのにね。勉強家で」

と、つい言ってしまった俺に、雅彦はますます腹立たしげに、への字の眉をつり上げて『フン!結局バカさ!とんでもない○スだ!』と容赦しない。そして、『君の方がキレイ。ずっとキレイ。誰よりもキレイ。キスしたいくらい』と、その時からそんなふうに言うようになった。

十歳の夏、この村へ来て、雅彦と初めて目が合った日から一週間後にはもう爆発したように殴り合っていた。けれど、雅彦に対して俺は、これまでのような、鼻っ柱への止めの一発を繰り出すのをためらった。取っ組み合いながら、好きだと感じた時、雅彦の最後の一撃が俺の唇を切った。遮ることを忘れた俺に、雅彦は心が咎めるようで、雅彦のやさしさを感じた。唇を腫らし、新しい青いシャツを随分汚してしまった俺の手を引いて、雅彦は父さんの前に立ち、『俺たち、ケンカしてしまって』と、一緒に言ってくれた。そんな雅彦の、仕立ての良い白いシャツもかなり汚れてしまっていた。

俺と雅彦は結局、光彦が俺たちの前に現れるまで、俺は雅彦を、雅彦は俺を、特別に意識していた。予選校に入ってからは、二人きりで行動することも多くて、屋上では時々授業をさぼり、時間を忘れて街や空を見たけれど、そんな時、雅彦は俺の肩を抱いて『君って男らしくて、でも、女の子のようにキレイ』と、屈託もなく誘う。また始まったと、俺は笑ってよけていたけれど、雅彦がいつになく額を寄せてくる日に、その唇を待ってしまった。吹き抜ける冷たい風が雅彦の身体で遮られて、胸の中まで温かくなることに抵抗できない。その日、俺たちは、食べることよりも好きな授業もたくさんあったのに、欠課届を出して学校の外に出た。理由の一つは、十一月にしてはすごく天気が良くて清々しい日だから。そして、もう一つの理由は、風が強くて、屋上ではないところで二人きりもっと一緒にいたいからだった。

雅彦は、予選校の近くにある親戚の家へと俺を誘った。初めは、散歩のようにぶらぶらと歩いて向かったが、近道だという急な斜面を滑るように降りてからは、小さい頃のように、どちらからともなく手をつなぎ合った。やがて、辿り着いた紅葉の木立の中にある白壁の古い家は、雅彦の曽祖父がアトリエにしていた家で、今は、『ひいおばあさまが一人気ままに暮らしている』ということだった。しかし、一族の人たちの出入りは多いらしくて、古い家ながら、家の内も外も手入れが良く行き届いている感じだ。裏庭では、誰かの薪を割る音が響いた。雅彦は時々”家出”をしてその家に泊まるので、雅彦のための部屋もある家だった。だから、雅彦が奥の部屋に挨拶の声をかけるだけで、俺たちはすぐに二人きりになった。

十三歳と三か月の俺たちが、カーテンこそは閉めないけれど、ベッドの上で恋びと同士のように抱き合ってみたのは、確かに好奇心が強すぎたせいもあっただろうけれど、多分に、俺は雅彦が好きだった。雅彦を見つめることも、雅彦に見つめられることも好きだった。雅彦に触れることも、雅彦に触れられることも嫌ではなかった。そうして、いつも特別に思う雅彦の存在ではあったけれど、俺には、二人で抱き合うことが特別な行為という意識はあまりなくて、もう気持ちの自然な成り行きに思えた。けれど、雅彦の方は、二人でいることを、唇に触れ合っていることを恥ずかしく感じるらしく、その分、喜びも強く表して俺に言った。

「ねえ、君が、女の子だったらと思うよ。女の子だったら、今すぐ童貞とサヨナラしたい!したいしたい!」

雅彦の言葉におかしくなって笑いはしたけれど、決してオゾマシイとは思わなかった。『キレイ・・・』と、俺の胸に触れる雅彦の乾いた指先を少しくすぐったく感じる。

「小さい頃、白過ぎだって、随分からかわれたんだよ。」

「だろうね。俺も最初は、この青いほどの白さを無気味に思って観ていたよ。でも。キレイだよ。青樹。どうして!女の子じゃあないんだ!俺のために今日から女の子になる・・?」

戯れながら、だんだんと、雅彦は男らしく俺の体に腕を回し、そして、だんだんと、俺は雅彦の言葉の呪縛にかかったみたいに身を委ねて、雅彦の唇や指先が伝える快感に目を閉じてしまっていた。

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第一章  初恋・青樹 <8>

しかし、結婚という提案は、もっと真面目な人間が口にするべきだったと、あとで思う。まして、妹のようにあどけないお前に、結婚なんて言葉を持ち出すなど冴えない話だ。俺に縋りたいように見えたお前は、一瞬のうちに冷めた横顔を見せて『イヤ!』と、はっきり言った。俺も、似合わないと自分を笑った。

あの日、『・・・まだ来ない』と打ち明けてくれるお前に、心配ないからと、やさしく言えなかった。光彦のために早く帰りたがるお前の態度が悔しくて、この前も、そして今日も、きちんと避妊には気を付けたから心配しないで、と応えてやるべきところを、俺は黙ったまま、お前の不安を思い遣ることもせず、からかうように、ジョークのように、”結婚”という言葉を口にしてしまった。最低だ。何もかも。

あぁ・・それにしても。お前は俺に対して、どうしていつも『イヤ!』としか応えられないんだ。そんなにイヤな男の胸で、あんなに泣き続けられるなんて、ワカラナイ。愛し合ったと感じる美しい余韻を踏みにじってまで、お前が口にするのは、お前の兄の名前。何故、そんなに、はぎ香、何故なんだ、光彦・・・。

俺は、あの雨の日まで、俺よりずっと年下のはぎ香に特別な関心を持ったことなどなかった。確かに、はぎ香は俺と同じ技芸術予選校に通っていて、そして、予選校の屋内プールでは、俺たちのクラスと同じ時間にはぎ香のクラスも割り当てられていて一緒だったが、その中にはぎ香がいると気付いたのも、つい最近のことだった。

年下の女の子たちを、かわいい、かわいいと、しきりに眺めて楽しんでいる者も多かったが、俺にはやつらが変態に見えた。俺は”あんなコドモ”と、気持ち悪いようにさえ思って、特に気に留めて見てみることもなかった。けれど、俺がプールサイドへ少し遅れて出た日、目の前で飛び込んだ女の子のきれいな背中と長い手足が目に焼き付いて、水の中から現われるのを待ってしまったが、それが、はぎ香だった。はぎ香のブラック・スーツは、原色を撒き散らした柄が流行っている中で、手足の白さを引き立てて、大人びて、新鮮だった。友達と交わす笑顔は、そんな大人びた後ろ姿からは想像もしなかったあどけなさで、それを、ひどく意外に感じた。女の子というより、やさしいキレイな男の子を見るような感じがした。

「かわいいだろう!ね!あの子だよ!」

見つめて、立ち尽くしている俺の傍で、クラスメートの一人がとても誇らしげに、自分のもののように説明したが、俺も認めざるを得なかった。もし、彫刻を続けていたのなら、モデルとしてクラスへ呼んで欲しいと希望を出したかもしれない。しかし、抱きたい、というふうに思って見るには年も離れ過ぎていて、あのかわいい笑顔は妹のようではあっても、恋の対象になるはずもないと思う程の、あどけないばかりの印象が残った。キャップを取って表われたウエーブのある長い髪が、項から背中へと続く美しい線を隠してしまったことを残念に思って観た程度だった。短い髪の方が似合うだろうと思っただけだった。

むしろ、俺は、彼女の兄、俺より二歳下の光彦の方を、かわいくてたまらないと思った時期があった。毎日会わずにはいられないほど好きだったのは、プラザのスケートリンクに通い詰めていた十三、四の頃だが、、最初の出会いは資料館だった。D村に越してきたばかりと、明るい顔を少し不安そうにしながら、それでも、年の違う俺に屈託なく話し掛けて来たと思うと、見過ごしにも出来なくて、資料館では一人でいることの多い俺だったが、一緒に昼食もとり、とうとう閉館まで、広い資料館の様々なボックスを案内して回り、父さんと同じ?名前の彼とすっかり友達になっていた。

次の日、プラザに連れて行くと、光彦は雅彦ともすぐに親しくなった。金緑色に光る明るい色の曲のある髪と、健康と清潔を印象付ける肌目の細かい褐色の皮膚は、雅彦と同じくらい、俺には魅力的に感じられた。長いまつげの目元の彫りは深いけれど、その表情は涼しくて、全体にはガンダーラの彫刻のように、なだらかに整っている。混血の進むこの島でも珍しく美しい顔立ち。雅彦には紹介したくないほど、そして、また、 紹介せずにはいられなかったほど、新しい美しい存在。イマキ・光彦。雅彦も、俺も、光彦に対する互いの心を一目で読み取って、たちまち張り合う気持ちが生まれる。いつものことだった。

『あの、レイ・マヤノにだって負けないさ!』と、かつて、一世を風靡したプロスケーターのちょっとない優雅な滑りを意識して競い、光彦や、やがて光彦が連れてきた彼の母、沙羅に見せようとばかりしていた。俺も、雅彦も、女の子たちに誉められるのには飽き飽きしていて、この新入りの、何かしら人目を惹かずには置かない雰囲気の彼らを、意識することが新しい楽しみになっていった。そして、その頃のはぎ香といえば、俺たちから見れば、およそ眼中に入るはずもない子どもで、兄の光彦と目が合った時だけ、かわいく笑い、それ以外は、男の子のようにキリッと目を見張って、ものも言わない、人見知りの強そうな女の子だった。俺たちは、いかにも双児座生まれらしい光彦の、人なつっこい愛らしさや、沙羅の、立ち姿の美しい不思議な華やかさに強く惹かれた。

特に俺は、このD村の、農場も牧場も全て”コマキ”の名で統合し、この村が計画田園都市になる前からこの地に住んでいるコマキ一族の雅彦とは違って、光彦たちより三年早くこの村に来ただけの入植者とあまり変わらない南下者(ヨソモノ)だったので、余計に、光彦と親しみを持ち合って接するようになった。それに、”ミツヒコ”は父さんと同じ音。俺は『ミツヒコ』と呼びかけるたび、心が揺れた。

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第一章  初恋・青樹 <7>

この計画田園都市”D村”の道路は、西のM市、南のQ市、そして、廃屋の街となって入り口が閉鎖されている北のA市とを結んでいた。A市からM市へ向かう通りには煉瓦を敷詰めたカフェテラスが延々と続き、開放的で魅力的なその出会いの空間は、公僕や、それから、俺のようにボランティア登録している者たちで組織されたガーディアン(又はスイーパー)が大勢働き、安全と清潔が当たり前のように保たれている場所だ。平和でやさしい時を求めて、人々は夜毎、公園の見えるテラスに賑やかに集っていた。

はぎ香に出会うまでの三年間、俺は、真夜中の公園で誘われるままに幾人もの可愛いと思う女を知ったが、皆、年が上のようだった。女たちは俺の名を知っていて、その瞬間、手を握ってやると必ず、”青樹”と俺の名を恋びとの名のようにやさしく呼んで応えてくれた。彼女たちは、俺が一夜限りにする男だということも、いつも必ず避妊具を忘れないということも、そして、互いに不潔になることを避けるためばかりではなく、労働や創作のための指先を大事に思い、性愛のためにこの手を使うことはしたくないと考えていることも、全て知っていた。他人からは、ひどく遊んでいるように言われているのを聞いていたけれど、俺は、『遊ばれているんだよ』と聞き流していた。というのも、俺はいつも、誘われてそれを受け容れるという形だったからだ。

カフェテラスに出て、少し夜を眺めていると傍に気配がして、振り向くと着飾った女が立ち、求めているやさしい目で俺を見る。そんな目をして見つめられると断れないものだ。俺は、そんなふうに真っ直ぐな目の奥に切な気な輝きを見せる女を、どうしても、かわいいと思ってしまって、一度も断ったことがなかった。そんなやさしい目をした女ほど、積極的で情熱的で大胆で、俺も遠慮なく男として応えてやることが出来た。そして、オサマラナイ夜には乱れた服装も整えないまま、俺はタバコを吸うことで確かめる。俺の肺から吐き出される煙に、このヒトはどんな反応を見せるのか。そして、タバコが終わらない唇の代わりに、俺は指先で女の頬や髪に触れているのが好きだった。

そんな夜は、たいてい夜明けまで何度か繰り返し戯れて過ごした。しかし、そんなふうに離れ難く過ごした女とでも、俺はそれっ切りにしていた。しつこく追うのは性に合わないと、相手の名前も聞かなかったが、結局、幾人付き合ってはみても、はぎ香と出会うまで、女性との関係は、ただ気まぐれに開けてみる軽い扉のように思うばかりで、俺は、父さんが待っている気がする重い扉だけを強く意識し、その扉に手を触れながら、開けることにためらう日々を公園で過ごしていたとも言える。

二十歳に向かう年、技芸術系予選校からの帰り道で、光彦の妹、はぎ香と、晩春の強い雨の中で偶然出会ったときも、俺はまだそんな風で、父さんの言うように恋を知らず、男であることを意識して自分から強く求めるということも、知らずにいた。

そんな俺が、一度きりと決めていた自分を捨てて、はぎ香にだけは二度目の機会を求めた。最初の日の俺の強引さを罪のように感じて苦しみながらも、会わずにはいられなかった。胸に抱いて、柔らかく話す声を聴いていたくて誘った。

こんな天気のよい日に、家の中に籠ってしまって、しかも、親の許しなど乞うてみても、とても得られそうにない幼い女の子を、長い時間抱いてセックスに没頭してしまうなんてと、陽の光りがまぶし過ぎたけれど、はぎ香を想う気持ちもまた、その日の空のように曇りない清々しいものだった。目を閉じるはぎ香の顔には、実際よりもっと幼く見える程のやさしさと美しさが表われ、そして、やっと素直に俺の胸に頬を寄せて震える様子は、誰よりも女らしいかわいさを感じさせて、俺を幸せにした。それなのに。その幸せを感じたのは俺だけだったなんて。誰かに訴えたいほど信じられなくて、俺は初めて、本当に弱く、頼りなく、寂しさに負けて行く自分を見た。

あの日、あの時、愛していると、離さないと、なぜ俺は、もっと素直に、もっと強く言わなかったのだと、何度も自分に問い掛けて責めた。けれど、いつも相手から誘われ、それを受け容れるという状態を普通のことのように思って満足し、自分から求めるということに慣れていなかった俺には、見えない心を補って伝えるはずの大事なその二つの言葉を、いちばん伝えたいはずの人に伝えることが出来なかった。”愛している””離さない”その二つの言葉は、知らない言葉のように俺の意識下に眠り、諦めようとした時になって、初めて、強く目覚めたのだけれど、もう遅かった。俺たちは終わるという暗い予感に耐えられなかった俺は、はぎ香からは遠くなるばかりの道へと踏み出してしまった。

それにしても、はぎ香。何故、お前は二度目の俺を断らなかったのだ・・・、何故、俺にもう一度逢ったんだ!と、そう考えて、お前を憎みそうにさえなる。お前に惹かれてゆく俺の心を見透かして、お前は俺に復讐したのかと、俺は冷たい気持ちになりかけては、その度に、時々感じたお前の頼りなさを思い出してしまう。お前は、もっと真っ直ぐな心で生きていると感じるから、憎むことも出来ない。

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第一章  初恋・青樹 <6>

「青樹・・・」

父さんは、どう応えればいいのか探るように俺を見つめて、そして、目には、また、あの色が浮かんだ。

「父さんは寂しくないの?ほかに恋びといるから?」

父さんは手を止めて、しばらく黙ってしまったが、俺をゆっくりと両手で抱きしめた。

「確かにね。僕にはそういう人がいる。それから、どうしても忘れられない人もある。例えば、初恋の人。そして、久美子・・・。でもね、僕がいちばん大切に思っているのは、青樹なんだよ。青樹はまだ女の子も知らない。恋も知らない・・・だろ?お前の目を見ればわかるよ。だから・・・ね。おやすみ、青樹・・・」

やはり・・・。でなければ”不可解”だと、覚えたての言葉で思いながら、父さんが抱いていてくれるやさしさに、俺はだんだんと眠い。女の子はまだ知らないけれど、男は、俺もう知っているのだけど。

  ”俺が上げる獣の叫びは 君が望む自由の証し”

髪に父さんの唇。久しぶりの父さんのキス。満足して、俺はもう目を閉じて、深々と呼吸をするたび、父さんの胸に沈む。一生、父さんの傍で暮らしたい。幸せだから・・・。二人きりだけど・・・。

父さんがくれた”人類不滅”は、健康カルテと一緒にいつも持ち歩いていたが、実際に使ったのは、それから二年後、初めて出掛けた公園の木陰でだった。俺より年が上らしいその女は言った。『あなたのさらさらした唇が素敵・・・キスだけでもう・・・・・た』そして『少しだけ・・・・軽く・・』と誘われて、俺は女の言うまま受け入れ、立って大木の幹に身体を寄せる女を後ろから抱く形で、本当の”ソーラー・ファーネス”に酔って、”くみこ・・・”と、偶然に知ったその女の名前を呼んでいた。少しでいいと言った女の言葉に反して、俺は長い間ほとんど動かず、辿り着く瞬間までの時を止めていたくて、ただ抱きしめていたけれど、やがて、”ああ”と、声にならず囁いているような女のやさしさが体を溶かすように染みてきて、心までも震えた。

カフェテラスで、『くみこ』と知り合いに呼びかけられ、振り返ったその女の目と俺の目がちょうど合って、”くみこ”というその名に惹かれて俺はじっと見つめてしまった・・・それがきっかけだった。彼女は真っ直ぐに俺を見て近づき『今夜、あなたと過ごしたい』と言ってくれた。行きずりと割り切れず、幸せな初体験だったと、俺は度々思い出し、その『くみこ』と呼ばれた女にもう一度逢いたくて、公園に通う常連のようになってしまった。警備隊にボランティア登録してくれないかと、その白い制服まで先に用意され、似合うからなどと言われて、週に一度の約束を守って、だから、この三年間ほとんど毎週テラスに出ていたけれど、とうとう、あれきり一度も会わない。そして、逢わない。今では、本当にあの女の名は『くみこ』だったのだろうかとさえ思うほど、遠い記憶になってしまった。はぎ香を知ってしまってからは、特にそうだった。

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第一章  初恋・青樹 <5>

その日は一日中父さんと過ごした。父さんも、今度は俺を一人にしすぎて悪かったと、俺のおしゃべりに付き合ってくれたし、それに、雪かきはもったいないから止めて、父さんとソリ遊びをした。二人乗りで何度も滑って、最後は必ずわざと重心を傾けて、うんと派手に引っ繰り返る。その度に、後ろから父さんの手に抱かれて、雪の中に転がって楽しい。父さんの明るい笑い声。父さんがいちばん好きなのは、本当は俺だと俺は思う。

お昼からは、薪割りが上手くなったので父さんに見てもらう。父さんは何でも出来るのに、薪割りだけは苦手なんだ。そして、そのあとは、いつもは簡単に済ませている家の掃除を二人でていねいにした。そうやって父さんの傍にいると小さい頃を思い出す。父さんが大好きで、父さんのまねばかりしていた。そんな俺を、父さんは少しも邪魔にせず、俺がしてみたいと言うことは何でも自由にさせてくれて、俺はいつの間にか、一人でいる時も不自由を感じないくらいに家事が得意になった。

言えば、他人からは軟弱者と誤解を受ける事がありそうだから言わないけれど、俺は、父さんに抱きしめられた事は数え切れない程あっても、酷いぶたれ方をされた事は一度も無かった。俺が失敗しても『いいんだよ』と、父さんは屈託なく言って、自分でやって見せてくれる。掃除も洗濯も料理も、庭木の手入れや花の水やりも雪かきも、薪割り以外は全て父さんに見習って、父さんとすると楽しいと思うことばかりだった。

その夜、俺は、この方が経済的だよと言って、父さんと一緒にバスタブにつかって、父さんのきれいな背中を流し、父さんも『まだこんな子どもだったかな。青樹?あれは早すぎたかな?』と、言いながら髪を洗ってくれた。夕ご飯のあとは、ソファでたくさんの雑誌に目を通している父さんにもたれて、俺は”ブック”に色々な俺を記憶させたりして、ひとしきり遊んだ。『青樹。まだ眠くない?』と、父さん。もっと父さんの傍にいたくて、上にあがるの、ツマラナイ。

俺は、まだこんな子ども・・・の振りをして『父さんと一緒に、下で眠りたいな。だめ?』と、甘えた。『いいけど・・・』と、言いながら、父さんは少し怪訝そうな表情をした。俺は、それには気付かない顔で父さんの部屋のドアを開けて入り、先に父さんの広いベッドへ飛び込んで父さんを待った。ベッドに近づき、俺の傍に体を入れる父さんが、やさしく、俺を見つめ続けてくれることが、特別の事のように嬉しくて俺は、父さんが横になるかならないかで、父さんの肩に顔を埋めて父さんの体に手を回し、何かためらっているように感じられた父さんの両手も、俺をしっかりと抱いてくれた。

俺は息が苦しくなる胸の中で言っていた。父さん、俺はもう知っているんだ。だから、父さん、それ以上の事をしてくれてもいいんだよ。この頃、俺は、父さんの傍にいると寂しくてたまらない。父さん、父さんの生活には女の人が感じられないけれど、今まで、それは、俺に気を遣って分からないように付き合っているのかと思っていた。でも、違うんだろう?父さんは男と付き合う男。この前、父さんの残していった白いシャツを洗おうとした時、ポケットのメモを見てしまったんだよ。

  妻と 漸く折り合いが着いた 今日からは本当に 君が僕の全て

  一緒に暮らすことを 君が望まないのが 残念で不可解だが

  もう 誰も 何も気にせず 君に逢える 

  こうしている今も あの日のように 君を抱きしめたい僕だけど 

  君は?

そして、”R”と、サインが入っていた。あれは、父さん、男が父さんに宛てた恋文?父さん、その男を抱くぐらいだったら俺を抱いてくれないか、と俺は、父さんの体をもう一度強く抱いた。父さんは、左手で俺の髪を撫でている。

「青樹。意外だな。まだ、僕と一緒に寝たいなんて」

「いや・・?」

「嫌なもんか。すごく嬉しいことさ」

「本当?俺、俺の寝相が悪いから別々に寝るのかと思ったんだ。それに、俺おしゃべりだから、父さん眠れなくて、そうしたいのかなって思ってた・・・違うんだね!」

と、俺は、自分でも子どもっぽく振舞うのが分かったけれど、父さんは、恋びとを抱くみたいに?強く抱いて楽しそうに笑うので、俺は父さんの腕の中で 思い切り甘えた気持ちになった。『やさしいんだね、青樹・・・』と、父さんは肩にくっついている俺の顔を少し離してじっと見つめた。間近で観る父さんは、見慣れていても、恥ずかしいほど綺麗だ。

「でも、こんなに甘えん坊なのは、誰に似たのかな」

「くみこ、だろ?」

「ふふ。久美子はね、二つ下なのに、まるで、おねえさまという感じだったんだよ」

「じゃ、やっぱり、俺、性格は父さんに似たんだ。寂しがりやだもの、父さん」

父さんは、俺の目を覗き込んで笑っていた。

「それに、ほら、左利きだろ。俺も左利き」

と、父さんの目の前に、俺は左手をかざすようにして出した。父さんは、俺のその手を自分の左手でつかみ取って、しげしげと観ていた。父さんは前からそんな風によく俺の手を観ることがあった。

「もう、くみこには似てないだろう?」

「そうだね、随分と逞しい男の手になってきた」

父さんは以前のように、俺の手に唇で触れるだろうかと期待したけれど、そっと、俺の胸に戻すように置いた。

「髪は切らないのか、青樹?どうして?」

「資料館の映像で見たんだ。直面で謡い舞う綺麗な人がいた。マヤノ青磁郎という人だよ。髪を自分ので結い上げるから、背中まで長いんだって・・」

『あぁ・・』と、父さんは小さく応えた。

「父さんも観たことあるの?」

「あるよ。マヤノ舞踏団の創設者だね。素晴らしい人だ」

「トモラチがね、言うんだ。感じが似ているから、伸ばせば似合うんじゃないかって。でも、俺が伸ばすと汚らしいだろうか、父さん」

「いや。細くて柔らかくて、たくさんあって艶やかで、とても素敵な髪だよ。まるで久美子の髪のよう・・・」

そう言って、父さんは『ああー今夜は幸せだ。青樹!』と、本当に幸せそうに、俺の、もうあまり小さくもない身体を腕ごとキツク抱いたので、俺も、父さんの首すじに顔を埋めて抱かれていた。父さんの幸福感は俺にも伝わって、本当だ、こうしていることはこんなにも幸せだ、と俺も今さらのように感じて言った。

「父さんが帰って来た日の夜だけでもいいから、時々こうして眠りたいな。おかしいかな」

「いいよ。青樹がいやでなければ・・でも、そんなふうに言ってくれるのも今のうちだろうって思うと、少し寂しい・・・」

「父さん・・・」

俺はそっと呼びかけた。父さんは、まだ、俺の髪に触れている。父さん、もう、その手のやさしさだって、まるで、何だか恋びと同士のしぐさのように思えて、俺は感じてしまうんだよ。

「父さん・・・。俺たち、もっと寂しくない関係になることは出来ないの?」

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第一章  初恋・青樹 <4>

交差している広い三本の道路の解凍機能はもう何度も破壊されている。道路に囲まれて、公園とブティックが密集した中央のトライアングル地帯には針葉樹が季節外れのクリスマス・ツリーとなって林立し、北のバスターミナルに集まって放置された乗用車が、もう何台も、赤や紺や黄、そして、緑と、白いパレットの上の絵の具のように、丸く屋根だけになって埋もれて行くのが、まだ降りしきる雪の向こうに見える。俺は、雪明りで妙に白い屋根裏部屋の壁に寄りかかって、父さんは大丈夫だろうかと、流石に心配になった。

俺が初等校を卒業してからは、仕事で始終留守にしている父さん。でも、俺の誕生日には必ず帰ってくる。ここよりもっと北の端れのS県に暮らしたことのある父さんは、寒さには慣れていると言っていたけれど、この突然の大雪に、今日は帰らないかもしれないと思った。

それでも、階下の居間は暖め続けていようと、土間には暖炉の薪を多目に積み上げ、それから、道が塞がらないように、玄関からずっと長い坂道の下までの雪かきを何度も、夜更けまで続けた。朝から大量に作ったポトフ-を食べている内に、雪かきのあとの疲れと待ち侘びる気持ちとで、俺は暖炉に足を向けながら、とうとう眠ってしまった。

明け方近く、ふと目を覚ますと、俺の横で俺に白い毛布を掛けて、一緒に父さんが眠っていた。寒かったのだろうか、それとも、俺をまだ子どもと思ったのか、小さい頃のように腕に抱いてくれている。俺は俺と十八しか違わない父さんの、まだ青年らしい清潔な横顔を、やはり、異邦人のように見つめながら、そっと起き上がった。

服を着替えたくて屋根裏に上がると、小さ目の包みが二つ、テーブルにあった。二つともすごい!と思う、父さんからのプレゼントだった。一つは、あの”ブック”だ!欲しかった。正夢だったんだ。世界市民ライブラリー呼び出し機能付きの、ほとんど万能の小型パーソナル・コンピューター。と、そして、永遠不滅の避妊具だった。何も・・・母さんを初めて愛した時、いくら父さんが十五だったからといって・・・と俺は思いながら、まだ少女の母さんを抱く父さんを想像しそうになる。”くみこ”と、夢の中でもその名を呼んでいる父さん。いつか、父さんと母さんの若い結婚に触れて、俺は『”くみこ”との熱っぽい関係をー』と、もっと話が聞きたくて言った時、口をつぐんだ父さんの目が、ゾッとするほどの美しさで揺らめいて俺を見た。普段とは違う複雑な憂いを宿した目が、じっと、俺を見つめた。

小さい頃も、そしてさっきも、俺を抱いてくれた父さんの身体の温かさや、その手の感触が甦って、俺はすぐには着替えずに、裸のままベッドに俯伏して空色の毛布を頭からかぶった。こんなことってあるだろうか。”くみこ”がオゾマシクて、なのに”満彦”はオゾマシクないのか。父親なのに・・・と、俺は思いながらも、結局、”ソーラー・ファーネス”に迷い込み、いつの間にか、父さんのあの目に抱きしめられて、どうしようもない程の優しさに気持ちが溶けてゆく。

全ての愛の形、愛の行為は認められ、解放され、天の許しを得ていない愛などひとつもないと考えることが、今様とばかりに大勢を占めていて、危険を伴うような情欲は、特に、俺たちの世代から見れば、過去のものとして映ったけれど、俺の、父さんに対する気持ちも、そんな時代の波に洗われて目覚めたのだろうかと、そう思いながら、やはり、こんなことって他の人にはあるだろうかと、いつも少し後ろめたさが残った。でもね、俺、あのメモを見てしまってから、ますます、父さんが”父さん”という呼び名の美しい異邦人に思えてくる。

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第一章  初恋・青樹 <3>

「それにしても三体とは驚きですね。本当に五万年も前のものなのでしょうか。私はこうして見ていながら、まだ信じられません」

「わずか千年、二千年の単位で文明は花開き滅びるのだから、いくらでも遡ってみることは出来るのかもしれないが。現代人と変わらない、いや、それ以上の骨格の美しさが、僕にも信じられない。ヴェガに遺された言い伝えは、やはり、本当なのかもしれない。手足の長さやあの氷河の下で骨が残る程の硬さ。三体とも若くして埋もれたようだが・・・」

「特に、先に見つかった二体の頭の形は、キョウダイのようによく似ていますね」

「そうだね。だが見つかった時、まるで夫婦のようにも寄り添っていた。ま、確かに同じ一族の者。しかも、密かに言われていたヴェガ・ブルーの特徴をはっきりと示している。厄介なことになりそうだ」

「厄介といえば、今見つかったもう一体の男は、頭蓋骨の左にまるで銃で撃ち抜かれたような痕があったのをどう思われますか?」

「・・・僕はね、もう覚悟を決めたよ。闘うんだ。この事実が抹殺されないように。それから、あの計器らしきもの。あれは、まるで、あれから外れて落ちたんじゃないかと思いたいくらいきれいだろう?」

と、雅璃麗先生は後ろを振り返って、先ほどの青年が乗り込もうとする自分の愛用の赤いヘリコプターを示した。示されて男が、鳥肌立つほど緊張するのがわかった。

「先生。あの土器の色もそうですよね。あの洗練された複雑な青に高い文明の名残のようなものを感じるんです」

男の仕事への情熱に、雅璃麗先生も頷き、静かに言った。

「あれにとてもよく似たものを、僕は靖家先生のお宅でいくつか実際に使ってらっしゃるのを見た。代々伝わって、もういつの時代のものかも判らない古いものだそうで、『拙いが』と言いながら大切にされているようだった。そして、それがね、リラの土ではないとおっしゃるんだよ。裏には名前の刻印も何もなくて、縁のたわみはやさしく素朴で、本当に見かけは拙いもののようにも見えるけれど、しかし、忘れられない温かさで呼びかけてくる感じなんだ。同じ美しいあの青。不思議だ・・・」

「厄介なもの、不思議なものばかりですね。まだ開け方の解らない小さな箱?も」

「ああ、まだ解らないんだね」

「ええ、もう見当が付きません。一通り触ってはみるのですが、まるで取っかかりが・・・」

”・・・それは・・・ブックだよ”

登録されている人の手、大概は持ち主や、その家族の人の手のエネルギーで開く仕組みになっているんだよ。

”それは・・・ブックだよ”と、俺は思わずつぶやく自分の声で目が覚めた。そして、なんだか、ふっと、おかしい。自分の身の周りの人やものが全く知らない別の世界を創り上げて夢の中に現われる。この前の夏至の日に技芸術予選校で、彫刻から建築へとコースを切り替えた俺は、もう随分と昔、あの黄金時代と呼ばれる二十一世紀の半ばに、若くして多大な功績を遺し、技芸術者集団のリーダーの一人でもあった宮大工マリホ・K・マヤノのことを、昨日、習ったばかりだった。俺が”真利秀”だなんて!嬉しい。苗字が同じなのを光栄に感じていたから、夢になったのだろうか。

それにしても、正義感の強そうな”雅璃麗先生”。母国語ながら勉強不足の俺の夢とはいえ、ひどい当て字名前のあの男。広隆寺から抜け出してきたような女顔をしていて、けれど、その女顔を男っぽく見せているキリッとしたへの字の眉。あれは、確かに雅彦。

そして、類い希な美形の”ヨシミツくん”。あの綺麗に陽焼けしたガンダーラの顔は、どう見ても、俺たちの光彦。それから、”沙羅”というのは光彦のお母さんの名前。あの人、俺のタイプだもの。氷の上を滑る俺や雅彦をいつも、懐かしいように見つめて、俺も惹かれて何度かその手を取って滑った。ずっと前から知り合っているみたいに話がはずんだ。

でも、いちばんおかしいのは、土器と呼ばれてしまった俺の大事な器たち。母さんの形見のきれいな青の菓子鉢。俺はいつもあの器のどれかでバニラ・アイスを食べているんだから。ン・・・五万年後に見つかるように、庭に埋めようか。まさか。もったいない。いけないよね。”くみこ”。ア・・・今朝は”くみこ”を抱いてみたいなん.て。オゾマシイ。起きろよ、青樹!

十五になる立秋の朝、そんな夢を見て、そして、あまりの寒さと、あまりの静けさに、とうとう降り出したのがわかった。この夏の終わりは異常に寒くなると予測はされていたが、父さんと一緒に、このG県の”D村”と呼ばれている計画田園都市へ南下して来てからは、初めての、冬以上の厳しい寒さだった。

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第一章  初恋・青樹 <2>

指揮官らしい数人のうち、一人の男が、やっと隣りにいる背の高い男に話しかけた。

「初めは、誰がこんな所を掘ろうなんて言い出したんだと、みんなブツクサ言ってたんですがね。雅璃麗先生・・・」

「全く。あのR地区の例もあるからというだけでね、何故か彼の言葉に動かされてしまって。しかし、こんなに素晴らしい結果を見るとは、天の導きとしか言いようがない。」

と、らしくなく応えて雅璃麗先生と呼ばれた男は遥か地下にいるその不思議な彼、真利秀(マリホ)の姿を捜して見つめた。

専門的に発掘作業を進める者達とは別に、力仕事のためだけに雇われた中年の逞しい男達の中に新しく加わった髪の長い若い男。艶やかな黒髪を無造作にかき上げた時、その額の白さと澄み切った目元の美しさが遠目にも際立った。まだ恋の憂いも知らないかと思うほどの冴えざえとした目、しかし、また、底知れない哀しさと寂しさのあまりかとも思えるその目だったが、ふと他人に向ける微笑は優しく、その彼が、鍛えられた身体を惜しみなく使って働く姿は、周りの男達に華やぎさえ与えて、泥と埃にまみれる苦しい作業を活気付け、捗らせていた。

「あのこが、彼と幼なじみだとかでね、R地区へ連れて来たのが最初だった。」

と、雅璃麗先生は、自分たちの後方で、引き揚げられた泥を黙々と採取しているもう一人の青年の後ろ姿に目を遣った。曲のある柔らかい髪が俯き加減の襟足に絡んでいる。見つめ過ぎないようにと気を遣うほどの美しい襟足だ。

「ヨシミツくん。途中で済まないけれど。宿舎の靖家先生たちに直接、説明してあげてくれませんか。」

後ろ姿からだけでも充分に美しい顔立ちを想像できたが、呼びかけられて振り返る青年の、目元の彫りは深く、それでいて涼しげな表情は想像を超えて魅惑的だった。目の色や髪の色と同じ褐色の皮膚は、この気候の中でかえって際立つ金色の光りを放ち、

「靖家先生たちに!」

と、まだ、あどけなさの残る顔を熱っぽく輝かせた。

「そう。妹の沙羅先生にもお願いします。先生がたは明日の船で降りる予定をされているのですが、それも変更してあげてください。」

雅璃麗先生に念を押されて飛ぶように駆けて行く。隣りの男も、その後ろ姿を見送って思わず、『綺麗な子だ。まるでガニュメデュウス?ですね。』と、仕事に関係なく言ってしまって恥じた。しかし、『いや・・』と、慰めるように雅璃麗先生は、『ガニュメデュウスとは、ぴったりだ。あの方が堕ちていくように心を奪われるのも無理ない・・・』と、少ない言葉で応じて口をつぐんだ。それを聞いた男もすぐに思い当たって沈黙したが、二人の会話は、また元に戻って感慨深く続いた。

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第一章  初恋・青樹(せいじゅ) <1>

雨。時には激しく。奪う人のように。雨。時には優しく。慰める人のように。

降りしきる雨を天からの愛の如く受け入れて、逸早く豊かな緑を回復し始めていたその島は、かつては北半球の広い大地の東の端れだったのが、氷河が後退するにつれて、嵩を増して行く海の水に隔てられ、だんだんと岸を離れて行く小舟のように遠ざかり、七つ八つと別れ連らなりながら、やがて、大海のほとりに浮かぶ細く長く目立たない弧状の島となっていった。

しかし、このソーラー・システムへ観光に訪れるヴェガ・ブルーの人々は、この惑星に近づく時、いつも、その弧状列島の形の珍しさに惹かれて、一度はそこへ降りてみたいと思うらしいのだが、この懐かしいような青い色の星に派遣されたリラ・イエローからの調査団もやはり、自分達の中に起きるその不思議な情動こそを頼りに、ヴェガ・ブルーに言い伝えられた第二のフルサト星の痕跡を、先づはこの島々の北の一番広い大地に探し求めた。

夏とはいえ、まるで過ぎてしまった夏至を憂うような鈍い陽光の中で、凍った大地は深く掘り下げられ、百人を越す男達の作業が静かに続いていたが、その手元にはもういつもと違う緊張感が漂い、その横顔には皆、興奮の色が隠せない。少し離れた場所から、またもう一体見つかったのだ。

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序章  弧状の島の上にて ( 1992~)

山脈(やまなみ)の青(ブルー)を映して 冴えざえとあなたの瞳

満たされた月の宴 悲願叶って狂おしいまま

咲き急ぐ花散らす 無惨な春の夜の

吹き荒ぶ嵐にさえ 育まれゆく 弧状の島の人々よ

水底の青(ブルー)を映して 冴えざえとあなたの瞳

積乱雲の彼方 遠い荒野の稲妻追い駆け

降りしきる雨の傍 輝く太陽(ひかり)の渦の

現に鳴く虫にさえ 育まれゆく 弧状の島の人々よ

天穹の青(ブルー)を映して 冴えざえとあなたの瞳

夕もやに彷徨い 朝霧の岸辺に身を繋ぎ

清流に放つ紅黄葉 違(たが)えた夢の続き

移り変わる色にさえ 育まれゆく 弧状の島の人々よ

無常(えいえん)の青(ブルー)を映して 冴えざえとあなたの瞳

天上を舞う花びら 闇に無言の白きを積み上げ

凍えて残れる月の 不透明な明けの空

止どまらない季(とき)にさえ 育まれゆく 弧状の島の人々よ

人々 太古(いにしえ)より 糧を追い求めて

人々 太古(いにしえ)より 夢を追い求めて

憧れ 漂い 流れ 辿り着く 弧状の島の上 

群れを成し 集い拡がる 弧状の島の上

わが祖国 弧状の祖国よ ミナヒトのフルサト 

わが祖国 弧状の祖国よ ミナヒトのフルサト

ミナヒトの子孫(コドモ)ら暮らす 

平和を守(も)り暮らす 弧状の島の上にて

平和を守(も)り暮らす 弧状の島の人々よ 

  

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「愛染コンプレックス」予告編

「愛染コンプレックス」全5章!癒しの古典的青春小説!

 第1章  初恋

 第2章  禁断

 第3章  旅立ち

 第4章  愛染

 第5章  蒼穹

構成はベートーヴェン「田園」からのインスピレーションによります。

乞う!ご期待!

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