指先も、手のひらも、手の甲でさえも、さらさらと触れ合うたびに、身体の中で膨らんでゆく熱い何か。身体の中の空しさでいっぱいの何かを外へ押し出してくれそうな、新しい感覚が目覚めようとしている。わたしの周りに、ファースト・キスの相手は雅彦だったという女の子が幾人もいた。分かるような気がしていたけれど、今、もっと分かる気がした。
白々と夜が明け始める中で、わたしは、あの北のA市が、コマキ一族の農場として生まれ変わりつつあるという、雅彦の話に、そんなA市を観てみたいなあと思い聴いていた。わたしたちの手は、まだ戯れるように絡み合って、”さらさら”を愉しんでいた。
けれど、急に、雅彦は、『おいで!』と、触れていた手を強く握ると、プラザの裏へ向かって走り、さらにどんどん駆けた。わたしも、訳のわからないまま、それでも楽しくなって一生懸命に駆けて、すると、広いコマキ厩舎の前に出ていた。
雅彦は息を整え、わたしを振り返ると、一頭の白い馬に近づいた。そして、『まだ眠いかな。ちょっと頼まれてくれないか。サヤカ?』と、優しく話しかけている。
”サヤカ”だって!と、思いながら、”乗るんだ”と、胸がわくわくする。成人の日の祝いなんて別にいらなかったけれど、この馬を自分の馬にしたいと、お父さまに言ったら、本当にそうしてくれたと、嬉しそうだ。『いいなあ!』と、わたしにしては珍しく、心の底から羨ましくて言ってしまった。
『そんな我が儘を言ったのは初めてだったんだよ』と、雅彦は気にするように言ったけれど、『すごいなあ!』と、わたしは大きく口を開けて、また言ってしまった。馬の目が若々しく、美しい。
雅彦の胸と腕に守られて、いちばん近い距離になった雅彦に何の違和感もなく、むしろ、その夜の自然な気持ちのまま、わたしたちはサヤカの上にいた。そうして、プラザの庭を散歩するのだと、そう思ったのだけど、雅彦が手綱でサヤカに示したのは、南のターミナルと北のターミナルを結ぶ、公園の前の大通りだった。
確かに、車の通らない歩行者専用の広い通りがあって、この時間なら、人も少ないかもしれないけれど、『警備隊の人たちに咎められない?』と、聞くと、『大丈夫さ。堂々と身分証明を見せて、俺たち緊急事態って、ね!』と言う。
雅彦は、転校した体育系予選校で資格を得て、救急救命隊員としてボランティア登録していて、週に一度は、その任務に就いているそうだった。だから、そんなこといけないのにと思っても、やっぱり楽しかった。
公園の前にさしかかると、まばらでも、思ったより人は多くて、ああ、どうしようと、雅彦の胸にぴったりと顔をくっつけていた。けれど、口笛や奇声が飛ぶだけで、警備隊がたちまち現れるというような大袈裟なことにもならなくて、むしろ、知り合いらしく、雅彦に手を挙げる人たちもいる中を、わたしたちはサヤカと疾走した。
あとで聞いた。あの人(雅彦)が、あんなことをするなんて。一体どうしたんだ。今まで、あり得ないことだったのに。どうしたんだと、周りの大人たちが、すごく心配していたと。次の朝も、本当は、おうちの大切な用事があったのに、それにも初めて遅刻したって。
北のターミナルを通り過ぎて、萩山の山裾で、雅彦は閉じられていた重そうな鋼鉄の扉を開けて、サヤカとわたしを導きいれて、また錠をおろした。そこは、以前は、展望台へ登る道として誰もが通っていた道だったそうだけれど、南下者が続出し、また、残った僅かな人々も計画田園都市へと移動してしまい、廃墟と化したA市を眺める人など、もう誰もいなくなって、今は、山の持ち主である雅彦の家が管理をしているだけだった。
「でもね。もう少しすると、この展望台も整備されて、再開されると思うよ」
と、雅彦の言う通り、それは、信じられないほどの夢のような、いえ、目の覚めるような眺めだった。あのA市の、灰色一色に思える廃屋の集まりでしかなかった街が、その街並みの跡形もなくて、美しい緑の農場に生まれ変わっている。
東側の斜面にはサーキット場の建設が進み、その周りの運動公園には、42,195キロの、それも激しい起伏をそのまま利用したマラソンコースが設けられるという。そして、西側の斜面下には競馬場が、もう、ほとんど、完成に近い。
小さい頃、クラスの男の子たちに一人だけ混じって、実は、恐がる男の子たちを家来のように引き連れて、「探検」に行ったときのA市の無気味さがいつまでも記憶に残っていて、広報などに最近のA市のことが載っていても、ピンと来なかった。けれど、今、目の前の広大な緑の平野は、間違いなく、そのA市だった。
展望台で、溜息まじりの深呼吸を繰り返し、ひとしきり話したあと、傍の小さな仮小屋で、朝ごはんと言って、雅彦は、サラダの缶を開けてくれた。向かい合って食べていると、急に気恥ずかしくなって、フォークを持つ手がぎこちなくなる。
わたしたちは、サヤカから降りてA市を眺めている間も、ゆうべの夢の続きを見ていたいように、その手を繋ぎ合っていた。そして、今は手を離して向かい合っているのだけど、わたしの中には、まるで一晩中、雅彦の胸に優しく抱きしめられて朝を迎えたような、そんな不思議な感覚が残っていて、雅彦の目を見るのが眩しい。そして、目が合うと、雅彦もまた、少し困ったような眩しい目になってニッコリする。なんて優しい目で見てくれるのと、わたしは嬉しくなった。
もしかして、と思った。もしかして・・・愛する人と、初めて二人きりになった次の朝って、こんな感じ?かもしれないと、胸が温かくなる。
雅彦もわたしも、その小屋で歯を磨き、顔を洗って山を降りた。少し早いけれど、予選校へ行くというと、わたしを北のターミナルまで送ってくれた。雅彦は?あの大通りをまた戻るの?と聞くと、『いや、もうこの時間だから考えないとね』と、残念そうに笑う顔は、やはり、大人の顔だ。
『ついでだから、おばあさまにサヤカを見せに行くよ。良かったら、君も来ない?』と、誘ってくれたけれど、月曜日は休みたくない授業がいっぱいあるのと言うと、もう、それ以上は言わなかった。
別れるとき、わたしの耳元に唇を近づけて、何を言うのかと思ったら、雅彦は、『はぎ香。バージン?』と、聞くのだった。何てことを。普通、そんなこと聞くかしらと思ったけれど、雅彦にそう聞かれることは、少しもイヤではないのに気付いた。雅彦以外の人から、そんな風に聞かれたのだったら、吐きそうな気持ちになっていたと思う。それなのに、何故か、雅彦は赦せた。まるで嫌味のない大らかな言い方に、何か安心にも似た大人しい気持ちになって、わたしは頷いた。
「だよね。やっぱり。だめだよ。男と二人きりで、人気のない山になんか登ったりしちゃ」
と、連れて行ったのは自分なのに、そんな風に言うので、おかしくなった。
「男なんて、みんな、ロクでもないこと考えてるんだから」
「雅彦は違うもん」
わたしは、楽しい気持ちで言った。
「まさか。俺なんて、ゆうべから、ず~っと!」
と言う。あ・・・と、少しだけ恐くなった。けれど、雅彦は、コワバルわたしの気持ちなど気にしないで言っていた。
『はぎ香。バイバイバージンの決心したら、俺のところへおいでね。絶対、優しくするから。』と。そして、『流行ってるんだろう?六つ違いの男に予約するの』
「うそ。うそ。そんなの流行ってない」
と、わたしは、甘えた気持ちになって雅彦を見上げた。
「七月二十日なんて、どう?俺の誕生日だから、俺は、一生、君を忘れないっていうの、いいだろう?良くない?」
「良くない!」
「でも、まさか、今時、結婚までなんて思わないだろう?」
「思う」
と、わたしは、からかわれてもいいからと、正直に言った。雅彦は、笑わなかった。まるで、お兄さまのように、わたしをじっと見た。
「だって。わたしの場合、そうなりたい人は、結婚したい人だもの」
と、その目の優しさに、わたしは打ち解けて、アカラサマニ言っていた。雅彦のキラッと光る目も、光彦のように明るくて男っぽい。
「そういうひと、もう、いるの?」
「いないけど・・・」
わたしは、半分だけ本当で、半分は嘘を言ったと思った。だって。わたしは、光彦とケッコンしたいけれど。出来ないもの。と、子どもっぽく漠然と思った。
「じゃ!俺、待ってるからね!」
本気とも、冗談とも分からない、明るい声で言って、雅彦は来た道を去って行った。
こんな言い方、どうかと思うけれど。まるで、王子さまのような雅彦と、どこかしら謎めいてエイリアンのような青樹と、純真なエロスのような光彦と。プラザのスケートリンクで仲良しだったころから、三人の中で、雅彦は、いちばん背が高く、いちばん大人びた雰囲気を持っていた。細面だけど、頬のふくらみの形の良さが魅力的で、大きすぎない目鼻立ちなのに、キラッと光る目をして笑う顔は、とても華やかに見えて、男らしい美しさを感じた。
兎に角、ハンサム?ハンサム!という古語がとても似合って、でも、それ以上にセクシー?セクシー!だった。わたしは、雅彦の何もかもに好感を持った。けれど、それなのに、やはり、この人ではないという声が、どこかでしていて、すごく感じてもいるのに、どうしても、バイバイバージンなんて、そんな気持ちにはなれそうになかった。
わたしは、雅彦に感じる分だけ、また、恐いとも思った。雅彦という人が恐いというよりも、まだ知りたくないことなのに、このまま、大人びた雅彦と会っていると、知ってしまうのかもしれないと、それが、恐いのだった。わたしは、夜の散歩をためらった。散歩のことも、雅彦のことも、何も知らない光彦が、電話の向こうで心配していた。
「はぎ香。ゆうべ、どうして電話に出なかった?また、ベートーヴェン?ヘッドフォンも使い過ぎると耳を悪くするぞ。特にベートーヴェンは良くない」
わたしと光彦は、約束してはいなかったけれど、土曜日の夕方に、光彦はよく電話をくれた。でも、先週は、いつもの時間をとっくに過ぎても、電話がなくて、わたしの方からかけても全部、留守番電話になっていて。光彦がQ市に行ってから、そんな土曜日は初めてだった。次の日もそうだった。だから、雅彦のいるプラザを訪ねて楽しかったけれど・・・と、考えた。
「違うの。眠くって。起きられなかったの。きっと。お兄さまは?どうして?いなかった?」
「急に、生徒の一人が訪ねて来てね、外に出て話し込んでいたから」
と、光彦は言った。
「女の人?」
と、わたしは、聞きたくて聞いてしまった。光彦には、一瞬のためらいのような間があるのを感じて、寂しい気持ちになる。
「いや・・・。男だよ」
と、光彦は言ったけれど、嘘をつかれているみたいに、一層、寂しくなる。光彦が嘘を言うはずもないし、わたしに、嘘をつかないといけない理由なんて、どこにもないのに、わたしって変だ、すごく変だ思いながら、寂しい。
シャワーを浴びながら、わたしは、遊びになりそうだからと感じて、もう、雅彦のところへ出かけるのは、よそうと決めた。悪いことだとは思わないけれど。光彦に言いにくいこと、言えば、余計に心配しそうなことをするのは、もう、やめようと思った。
いつも冷たい、お母さまが、もし嘆いたって平気だけど。いつも優しい光彦が、わたしのせいで、明るい顔を曇らせるのは、見たくないから。
お母さまが出かけたあと、光彦の部屋で、光彦の水色のシャツを着て、光彦のベッドに横たわって、そう考えていた。会いたい・・・と。聴いたばかりの光彦の明るい声を思い出しながら、いつもだと嬉しくて眠れるのに、その夜は、余計に寂しくなるばかりで、眠れない。
手を触れ合っていた人が、お兄さまで、『おいで・・・優しくするから』と言ってくれる人がお兄さまだったら、と。まさか、と自分でも驚きながら、お父さま以上に、お母さま以上に、いくら慕わしくて大切でも、わたしたちは兄妹なのだから・・・いけないのだから・・・と、湧き上がってくる気持ちを振り払って、もう眠らなければと、目を閉じたとき、闇の中に光りが差し込むみたいに、光彦の涼しくて、眩しいような目をした優しい顔が、頭の中にいっぱいに広がって、わたしを、わたしの全部を被うように包んだ。
幻なのに、しっかりと抱きしめられているような息苦しさに、わたしは両手で光彦のシャツを握りしめたけれど、胸の底から、身体の奥から、光彦への想いが、もう、はっきりと言葉になって表れ、全身から強い痛みが胸に集まって突き刺さる。会えなくて!恋しくて!会いたくて!抱きしめてほしくて!
あまりにも気持ちが揺れて、泣いている自分が、いつ眠ったのかも分からなかった。そして、目が覚めても、わたしの胸の中、頭の中は、光彦でいっぱいになったままだった。